近代資本主義の両面―野麦峠と諏訪湖 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

「ああ野麦峠」と不可分の大正ロマン

1960年代に、山本茂実の丹念な聞き取りによって発表された「あゝ野麦峠」。私はこのルートを車で走ってみた。明治時代から昭和初期にかけ、飛騨の女工たちが連れ立って諏訪湖ほとりの岡谷にある紡績工場に働きに行くルートのうち、県境になるのが野麦峠。しかし岡谷から飛騨に帰るのは雪深い正月前後だったため、多くの工女たちがここで望郷の念をもちつつ命を落としたという。大竹しのぶ主演の同名の映画は、1980年代初めに大ヒットし、中国でも公開されて多くの人々の涙を誘った。

しかしこの原作は、たんなるお涙頂戴ものではない。「富国強兵」という明治政府のスローガンのうち、男の担った「強兵」ばかりが注目されるが、「富国」を担った女たちの存在を世に知らしめたのがこの作品といえるのだ。

長野県側から、昼でも薄暗いほどうっそうと生い茂った針葉樹林帯のなか、うねうねとした急カーブと急勾配をどんどん登っていくと、岐阜県高山市の標識が見えてきた。と思ったらすぐに「野麦峠の館」についた。ここでは例の映画のダイジェスト版を見てから関連資料が見学できるが、個々の関連資料よりも工女たちの峠越えをイメージして作ったマネキンがところどころ置かれているには、分かっていながらもドキっとする。

中学生ぐらいのまだあどけない少女たち。明治期の日本にとって最大の外貨収入源の一つであった製糸業を支えていたのがこんな子たちだったのかと改めて考えさせられる。またその裏には、彼女らがかつて泣きながら歩いたであろう石畳の街道が残っている。正面に北アルプス乗鞍岳の雄大な光景が見渡せたが、彼女らにはそれを楽しむようなゆとりはあるまい。ここで亡くなった工女、政井みねの碑や、観音像を拝んで峠を下った。

この峠を下って、さらにいくつかの峠を上り下りすると岡谷のある諏訪湖が見える。当時の製糸場の様子を知るために、松本市歴史の里を訪れた。そこには旧昭和興行製糸場が移築復元されているのだが、実に殺風景な建物だ。なお、この歴史の里には工女たちが移動中に宿泊した工女宿が移築され、作者山本茂実の資料もあり、一見の価値がある。

一方、諏訪湖畔の上諏訪温泉には当地のシルク王、片倉氏が1928年に建てたクラシックで豪華な洋風温泉施設「片倉館」や、1930年代前半に作られた帝冠様式(屋根が和風のコンクリート建築)の建築群が目を引く。これらも女工たちの血と汗と涙の決勝であろうと思うと、自由で豊かな大正ロマンを体現したかのような片倉館を見る目も変わってくる。こんな施設など絶対享受できなかった工女たちの姿が目に浮かんでしまうのだ。

ところで美術館といえば、諏訪湖畔には「美術館銀座」とでもいっても過言ではないくらい、実に美術館や博物館が多い。その密集度合いは少なくとも倉敷に匹敵するほどだ。倉敷と諏訪。共通点が浮かんだ。やはり紡績業だ。クラボーの企業城下町としての一面を持つ倉敷と、片倉紡績の企業城下町、諏訪/岡谷は、搾取すると同時に地元に美術や文化をのこしたことにも言及しなければ公平でないだろう。

資本家による工女の搾取→資本家による文化的社会還元(メセナ)→観光方面の雇用創出、という、一方的に善悪をつけがたい図式が近代日本の労使関係だったのだろう。