新潟市のアイデンティティ | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

新潟市のアイデンティティ

 新潟県の県庁所在地にして本州日本海側唯一の政令指定都市ではあるが、市内には全国的に知られた観光地に乏しいように思え、新潟市に向かった。

実は新潟市周辺は隠れた庭園の名所が少なくなく「にいがた庭園街道」として、28ヶ所の庭園がネットワークを作っている。その内でも気になる三つの庭園を訪れた。越後の大地主、伊藤家の豪農の館「北方文化博物館」、歌人・書家の会津八一の邸宅「北方文化博物館新潟分館」、そして石油王の邸宅「中野邸記念館」である。豪農、石油王、文人と、様々なタイプの庭が楽しめるのも魅力だが、特に開放的な百畳の大広間の北には枯山水、南には池泉回遊式庭園を配した北方文化博物館庭園は芸術的に申し分なく、時を忘れさせてくれるほどの空間である。また春には大きな藤棚が紫色の空間を彩り、秋には紅葉と松で紅緑のコントラストをなし、冬には白銀の世界という、四季を通して色彩豊かな庭である。

 この町のアイデンティティはなにかが気になり、新潟市歴史博物館「みなとぴあ」に向かった。敷地には旧新潟税関庁舎のなまこ壁と赤瓦と望楼が化粧直しの最中だったが、こここそ幕末に「五港」の一つとして新潟港が開港され、近代新潟市の始まりとなった場所なのだ。 

 博物館内は一貫して「反長岡藩」という視点に立脚しているのを感じた。例えば江戸時代の新潟の紹介パネルには「長岡藩の過重な御用金の取り立てに端を発し、新潟町民は激しい抗議行動を起こし、奉行所や町の役人を排除して、町政を行った。」、「長岡藩は新潟湊が扱う荷物に税をかけて大切な財源にした」などと表現され、搾取する長岡藩VS搾取に負けない新潟という図式が見て取れる。そして長岡にとって最も大切な出来事の北越戊辰戦争に関しては、新政府と奥羽越列藩同盟軍の動きを客観的にさらりと述べるにとどめる。あえて「長岡無視」を決め込んでいるかのようにも見える。

 なお、近代の新潟港は発展が途中で停滞したが、1938年に満洲航路に指定されたことで活況を呈し、その新潟からも移民団550人が送られ、57名が中国で亡くなったことなども記されている。そのパネルのくだりは「日本の中国侵略は新潟港を『大陸への玄関』とした。新潟港は繁栄した」とまとめている。自分たちの繁栄が日本の搾取と圧政のうちに成り立つということを隠さないその姿勢は、単なる植民地支配に対する反省というよりも、長岡藩の支配を受け続け、搾り取られたことに対する「同病相憐れむ」思いからなのか。

また、衝撃的なのは、県知事が1945年8月10日に布告した一枚の赤茶けた紙である。長崎に原爆が投下かされた後には、この町に原爆が投下されていたであろう恐れは極めて高いとされたため、新潟市民に疎開命令を出しており、市民もそれに従ったという事実がある。武士道を重んじる長岡市民なら残っていたかもしれないが、「非国民」扱いされても「命あっての物種」とばかりに疎開し、新潟市内はその後一週間もぬけの殻となったという。

 どうやら新潟市民の精神的支柱が見えてきたようだ。それは越後平野の農村を基盤にした大地主や、北前船による交易で利益を得た商人たちが、長岡藩の支配下で培ってきた庶民的な反体制的精神と言えまいか。そしてそれは名誉ある死より、地道に生きることを選ぶのだ。いずれにせよ、この町が史上三つ目の原爆によって壊滅せずにすんだのは幸いである。