島外民(ヨソモノ)の「梁山泊アジール」としての佐渡 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

島外民(ヨソモノ)の「梁山泊(アジール)」としての佐渡

 歴史的に佐渡は金銀あふれる島と、流刑地という二つの面を持ってきた。共通していえるのは、この島は金銀山に群がる人や、そこに送り込まれた人、そして政治的理由で追いやられた島外民(ヨソモノ)の「梁山泊(アジール)」的存在だったといえよう。そのためか、なにやら胡散臭(うさんくさ)さをも感じさせる。それはヨソモノがもたらしたものであり、この島の人々に内在する性格ではない。

 この島が流刑地としてクローズアップされたのは、鎌倉時代から室町時代、すなわち中世においてである。まず、承久の変で敗れた後鳥羽上皇は隠岐に、土御門天皇は四国に流されたが、この佐渡には後鳥羽上皇の皇子にして、土御門天皇の弟に当たる順徳天皇が流され、この島で生涯を終えた。性格が温厚な兄は温暖な四国に、気性の激しいとされる父と弟は日本海の荒波と風雪に耐える日本海側の島に流されたという対比も興味深い。

 順徳天皇が佐渡にて崩御した30年後、「本当の釈迦の教え」とする法華経をもって浄土信仰を、禅を、そして鎌倉幕府を批判した宗教界の「反逆児兼革命家」の日蓮がこの島に流された。「立正安国論」で世の中の風潮を批判した彼は、鎌倉のはずれ、江ノ島を前にした瀧の口刑場にて斬首されるまさにそのとき、海上にまばゆいばかりの光が発したため、刑は遠流(おんる)と軽減され、来島した。その際小舟が嵐に見舞われ、櫂で荒波の上に「南無妙法蓮華経」と書いたら嵐がやんだ、などという怪しい伝説も残っている。この島でも念仏信者との対立など、苦難も多かったというが、敵をも仲間にして教えを広めるとともに、長い冬にはさらに思索を深め、三年の滞在中に「開目抄」などの大作をしたため、後の布教の礎となった。彼の草庵があったという妙宣寺は、「草庵」にかけてか大きなわらぶき屋根となっている。

 さらに室町時代には能の開祖ともいえる世阿弥が、パトロンであった足利義満が亡くなるやいなや、この島に島流しに遭ってしまった。一世を風靡した能をこの島においても演じたらしいが、その詳しい足跡は不明である。

 

近世、すなわち桃山時代から江戸時代にかけて、当時なりのグローバルな世界において金銀の価値が見直された。石見銀山から大久保長安が佐渡奉行としてやってくると、「灰吹法」という当時最新の手法で金銀を抽出するようになり、一攫千金を求める山師たちで島の人口は一気に激増した。伝説では彼らを相手に来島した芸能人こそ、京の五条河原でブレイクする前に歌舞伎踊りを始めた出雲阿国だったらしい。ここは昔から芸能の島だったのだ。

 島外のビッグネームばかり目立つが、この島で生まれ育ち、中央に出て世を騒がせた人物の登場は、昭和の北一輝の登場を待たねばならなかった。若くして「天皇を中心として国民をまとめた国家」ではなく「国民をまとめるための天皇制」を主張し、人生の半分以上を警察の監視下におかれた。この世紀の謎の思想家は226事件の思想的バックグラウンドでもあり、首謀者ともされた。歴史上の評価が定まらないながらも、生家は今なお両津に残っており、近くの若宮神社には彼の肖像をレリーフとした記念碑も建っている。

 佐渡に足跡を残した人物は、敗北者でなければ氏素性の分からぬ、または謎だらけであるパターンばかりなのが実に興味深い。佐渡歴史伝説館では、日蓮や世阿弥のロボットが往時の様子を再現してくれるが、暗い館内とロボットのぎこちない動きに謎がさらに深まる。