平城京と天平「文明」 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

平城京-天平の文明開化

奈良市で朝から夕方まで定期観光バスに乗ったときのこと。これは東大寺→春日大社→興福寺→法隆寺→薬師寺→平城宮跡と、名所をみな周遊できる優れものだ。市内各所で「日本のふるさと奈良」というキャッチフレーズを見た。奈良の都を歩きながら、私が住んでいた出雲とは、古代の息吹が漂うという共通点はあるものの、ある何かが大きく違うことに気が付いていた。出雲から見ると奈良は中華文明そのものなのだ。古代出雲にももちろん渡来人がもたらした理系的な世界は存在してきた。四隅突出墳丘墓のシンメトリーや東大寺大仏殿をしのぐ高さを誇る出雲大社本殿、たたら製鉄に銅剣・銅矛・銅鐸といった金属加工は文明である。しかしそれらは伝説の出雲大社本殿を除き、奈良における巨大な文明に比べると規模において見劣りする。そして出雲はその後「神々の國」という、他所とは一線を画する存在としてのあり方を周りからも期待され、自らもそれを受け入れてきた。

東京に戻った数日後、私は東京駅から丸ノ内の旧三菱一号館美術館、霞が関の旧法務省本館などの、明治期の赤瓦の建築を見て歩いた。文明開化期に欧米の文物を徹底的に取り入れようとした明治人たちの遺産を見ながら、あの日に歩き回った奈良のことをふと思い出した。そして「東京という街は平城京とそっくりだ!」と気づいた時、ようやく奈良、すなわち平城京の本質がわかったような気がした。

私はあの日、「日本文化」の精華としての奈良を見てきたつもりだった。しかし、平城京は連綿と続く「日本文化」というよりも「中華文明」の移植であることに遅ればせながら気づいたのだ。例えば人工的な碁盤の目状の都城、薬師寺の完全なまでに左右対称な伽藍、聖武天皇が行基の力によって建立した当時世界最大の木造建築の東大寺大仏殿や、世界最大の鋳造物盧舎那仏。それらは言うならば明治期の赤レンガ建築群が日本古来のものとは技術的に断絶しており、国家の威信をかけて欧米の文物を導入しようとした明治文化にも似ている。同様に平城京というのは「近代化」「文明開化」の産物であったのだ。

天平「文化」とはいうものの、これらは「文化」というより「文明」である。文化と文明は時に対立し、時に融合するが、根本的にある相違点は「文明」=普遍、「文化」=独自性である。文明とは計算と論理によって成り立つ。ゆえにより多くの人たちと分かち合える合理性、普遍性を持っている。計算や論理は、誰が行っても答えは同じでなければならない。これが文明だ。それに対して文化は文明を基礎にしつつも人と分かち合えぬ部分を大切にし、仲間内だけで楽しむことによって、仲間内から外を差異化する傾向が顕著である。
 飛鳥時代以前は文明国だったが、その後、「近代化」から立ち遅れた出雲。そして飛鳥時代を通して大陸文明を吸収し、その集大成として作り上げた平城京。江戸文化の粋を誇りながらも明治以降はそれを捨てさり、Westernizationとしての文明開化を果たした東京。出雲、奈良、東京を回って気づいたのは、出雲と奈良・東京の相違点が、この「異質にして舶来の文明開化」の有無ということだ。天平文化は「第一次文明開化」だったのだ。

日本が他国とは分かち得ない「文化」を再び持つようになったのは、次の平安時代の国風文化を待たねばならなかったのだろう。