B型太子のB型寺院-斑鳩法隆寺 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

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B型太子のB型寺院-斑鳩法隆寺

私はB型である。日本人は血液型で人の性格を判断するのを好む。例えば日本人の4割を占めるA型は「几帳面だが、常識にとらわれすぎ、融通が利かない」。対するB型は「型破りで我が道を行き、自分だけのこだわりが強すぎる」。とされる。当然A型とB型は相性が悪いとされる。日本史上最もB型的な人物と寺院を探しに奈良県は斑鳩に向かった。私が会いに行こうとた人物とは法隆寺の厩戸皇子、後の聖徳太子である。

斑鳩法隆寺のB型的な点は、まず東アジアという枠組みをはるかに超えたグローバリズムにある。百済観音や救世観音、渡来人鞍作鳥作といわれる釈迦三尊像など、北魏様式や百済様式がまざった仏像はもちろん、宝物館で見られる伎楽面の風貌はシルクロードの諸民族そっくりだ。また1949年に焼失した金堂壁画はインドのグプタ王朝の壁画とよく似ている。さらに回廊の柱の真ん中のふくらみはギリシャ宮殿のエンタシスの影響、というように各国の技芸が一堂に会した「万博会場」の様相を呈している。

法隆寺の二つ目のB型的なところは、外来文化の「型やぶり」度合いである。法隆寺以前に建立された飛鳥寺や四天王寺の伽藍は当時の東アジアにおけるグローバルスタンダードである左右対称、すなわち舶来の手法そのままに設計されている。それに対して法隆寺は金堂と五重塔が横に並ぶ、あえて左右非対称の伽藍である。ここに私は「型破り」、すなわちグローバルな枠組みから脱しようとするB型的こだわりが見て取れるのだ。

さらに日本のような地震大国で、7世紀の木造建築が今まで倒れず現存することは奇蹟に等しい。この「耐震」「免震」技術は、中国語や朝鮮語の適訳がない。中国語では「抗震」と言うことからも分かるとおり、地震が少ない大陸においては建築を強固にすればするほど崩れにくくなるという単純な発想しか生まれなかったが、地震が日常茶飯事の日本においては強固であればあるほど地面とともに揺れて倒壊してしまう。そこであえて心柱を土の中に埋めず、振り子のように宙に浮かせ、大地が揺れると建物ごと揺れて地震エネルギーを発散させることで倒壊を免れる耐震、免震構造を7世紀に完成させていたのだ。「堅固な建築が強い」という大陸の常識を破った「B型的建築技法」がここに見られる。

ちなみに、聖徳太子は隋の煬帝に対し、「日出処天子致書日没処天子」という出だしで始まる外交文書を送った。朝貢という東アジアの外交・貿易システムという型をあえて無視したのだ。自国を「日が登る国」、そして相手国を「日が沈む国」と呼ぶだけでなく、世界にただ一人、天下を取り仕切るよう命ぜられた「天子」さえも相対化してしまうこの国書に、煬帝は激怒したという。東アジアのみならずインドやシルクロード、ギリシャまで視野に入れ、隋帝国をも恐れず相対化した彼は我が道を行く「B型太子」である。その後の日本が歴代中華帝国の影響を受けつつも毅然として孤高を保ち続けた原点がここにある。

国家という枠組みを超えた仏教美術、「朝貢」という東アジアの外交的枠組みを無視して我が道を行く外交政策、独自のこだわりでグローバルスタンダードの様式から左右非対称の耐震構造にした寺院。これらのあらゆる「B型的」な寺院が法隆寺であり、それを建てた人物こそ我らが聖徳太子なのだ。とはいえ彼の本当の血液型は知るよしもないが・・・