豊後―かつての日本の玄関口(大分・臼杵) | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

 

豊後―かつての日本の玄関口(大分・臼杵)

十二月末の早朝、熊本県黒川温泉を発った。フロントガラスには霜がおり、吐く息も白かった。「阿蘇くじゅう国立公園」として知られるくじゅう連山のカルデラを通り過ぎて二時間後、大分駅前に到着した。外は生暖かかく、これが冬でも温暖な瀬戸内海気候か、と実感した。駅前の広場には、「南蛮風和装」で十字架を首に下げたキリシタン大名大友宗麟像と、質素な服装のザビエル像が迎えてくれる。また広場の地面のタイル画には南蛮人のもたらした世界地図が描かれており、日本を見ると都や山口とともに豊後の文字が目立つ。町としては温泉だけでない日本の大航海時代発祥の地としての大分県をアピールしたいのだろう。

そこから大分県庁に向かった。庁舎に接する道路の中央分離帯は遊歩公園になっており、この地で布教したザビエルや、大友宗麟らに天正遣欧使節として派遣された四人の少年の一人、伊東マンショらの銅像、そして宣教師による日本初の洋式病院や孤児院があったことを記念するレリーフなどが立ち並ぶ。そこを歩くだけで、この町が南蛮人や宣教師たちで活気づいていたことがうかがい知れ、道路向かいの大友氏の居城、府内城に面した港から各国に向けて船が出入りしていたことなどが想像できる。

大分市から一時間ほど南に走った臼杵についた。後に大友宗麟が居城を構えたこの町の港で小舟を呼び、数分で対岸の黒島に到着した。黒潮に洗われる太平洋側の気候のおかげで亜熱帯植物が生い茂るこの島は南国的な時間の流れのゆるさがそこにはあった。今朝のくじゅう高原の霜柱がうそのようだ。関ケ原の戦いの直前にオランダ船リーフデ号がこの島に漂着した。欧州から大西洋を越え、南米から太平洋を渡って三年かけて到着したこの船の航海士がオランダ人のヤン・ヨーステンや、後に家康の寵愛を受けて帰化した英国人のウィリアム・アダムズである。それを記念してこの島には記念館があるというので島に渡った。

 島には旅館が一軒あるきりだが、漁場らしく釣り人も少なくない。お目当ての記念館は、プレハブのような簡素な作りで小さく、展示物もコピーやパネルが中心である。ただ、この小島がオランダと日本との接触点であったことは、歴代のオランダ大使が訪問することや、オランダの王族が植樹に来ることからもうかがい知れる。

 それにしても南蛮人や宣教師、オランダ人、さらに英国人など、彼ら西洋人が当時持っていた冒険心には目をみはるばかりである。俗に「中国四大発明」と言われる製紙法、印刷術、羅針盤、火薬は、中国発祥でも発達したのは西洋だ。西洋人は製紙法と印刷術を応用して聖書を大量に印刷し、それを持って船に乗り、羅針盤を利用した高度な航海技術で海を渡り、「野蛮人」に遭遇した時のために火薬を応用して鉄砲を作った。そして宣教師や商人、軍人たちがインド洋、大西洋、さらに太平洋まで渡ってこの国に漂着したのだ。

 もちろん東洋人、例えば明の鄭和もインド洋を渡ってアラブ・アフリカと交易したという史実はある。が、西洋人のような継続性と拡散性はなかった。太平洋の黒潮が連れてきた西洋人にとって、二つの大洋の波濤を乗り越えてたどり着いた豊後の地は、束の間のオアシスに違いなかったろう。ただしそれも鎖国までの半世紀余りのこと。ただ、今なお彼方から流れ来る黒潮がかつての栄光の「記憶維持装置」となっているのだろう。

 

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