幻の「まつろわぬ民」熊襲・隼人に対するまなざし | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

幻の「まつろわぬ民」熊襲・隼人に対するまなざし

 南九州には神代には熊襲(クマソ)、古代には隼人(ハヤト)と呼ばれる人々が住んでいた。より古いとされるのが「熊襲」、すなわち現熊本県球磨(くま)から鹿児島県曾於(そお)にかけて支配していた部族である。「記紀」によると、朝貢をしてこないクマソタケルを「征伐」するため、この地に遣わされたヤマトタケルは、女装してクマソタケルの気をひいたうえで敵を刺殺したという。朝廷の思い通りにならない「まつろわぬ民」は、本邦初の「女装家」の「征伐」の対象になったのだ。

霧島市隼人町の山中に、クマソタケルが住んでいたという洞窟があるが、中に入って驚いた。赤や青といった鮮烈なペインティングが洞窟いっぱいに施されているではないか。伝説と現代アートの融合。まさかこんなものが見られるとは思わなかった。ただ書かれている説明が意味不明だ。「天皇家に対して従順である熊襲はヤマトタケルに斬られても、手下たちには彼を斬ってはならないと言った。この精神が世界平和に繋がる。」と言うのは論理の飛躍であるだけでなく、熊襲征伐から昨今の領土問題に対してまで話が飛び、さらに「南九州の人間は素直で、集団就職の列車に乗って北に向かった云々」など、熊襲と関係ないノスタルジーまで羅列されている。ただ、これはこれで住民の思いがこもっていて面白い。

一方で宮崎県都城市には「熊襲踊り」が受け継がれているが、それはヤマトタケルの「熊襲征伐」を誇らしく歌い上げ、踊るものである。そこには熊襲の子孫が「先祖」を野蛮視し、自分たちとは関係ない忌むべき存在とみる「ねじれた」まなざしが見える。

なお霧島市隼人町には奈良時代に朝廷に反旗を翻し大量殺戮された隼人たちの塚があり、後百済風の石塔が三つと四天王像が立っている。また隣接する曽於市には「弥五郎どん」という巨人伝説があり、地元の道の駅「おおすみ弥五郎伝説の里」には、高さ15mもの剣を持った弥五郎どんの像がこの地を守る。11月には隣県宮崎でも弥五郎どん三兄弟の人形が町を練り歩く祭りが行われる。この巨人たちは「まつろわぬ」隼人の首領とされており、大量殺戮された自分たちの先祖を弔う意味を持つという。

朝廷の軍門に降った隼人たちのなかには平城京に連れていかれ、宮廷で「隼人舞」を演じた者や、犬の鳴き声の真似をして邪気を払うというような職務に就いた者もいた。朝廷からみた隼人は、異国情緒を持つ「番犬」だったのだ。隼人塚史跡館の館長曰く、「隼人といっても当時すでに日本人。異民族ではない。」隼人の子孫である自分たちを異民族扱いするなと言う思いがあるのかもしれないが、当時中央から異民族扱いされ、朝貢させられていたのは間違いのない事実。また曰く「熊襲など存在しなかった。」それなら先ほどの「熊襲の穴」を守り続けてきた地元の人たちの心をどう説明するのだろう。複雑なまなざしだ。

後に七百年にわたって南九州を支配してきた島津氏配下の武士たちは、勇猛果敢に朝廷と戦って死んでいった先祖に対する思いからか、自らを「薩摩隼人」と誇らしく呼んだ。そして今、ご当地戦隊ヒーローの「薩摩剣士隼人」は、刀は使っても刃はなく、戦うよりも相手と酒を飲んで仲良くしようとする「テゲテゲ(大らか)」な気質だ。彼が地元の子供に愛されるのも、日本の片隅で故郷を守るために戦った先祖たちの記憶があるからに違いない。

 

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