「鵜飼いの鵜」にされていた八重山(やいま) | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

 25歳の頃、1年間沖縄のやんばるに住んでいたことがあったため、沖縄にはある程度慣れていた。しかし「八重山」は沖縄から見ると異世界であるかのような感じがしていた。そもそも八重山の中心、石垣市から沖縄本島の中心の那覇市まで411kmであるのに対し、石垣-台北間はわずか273kmである。一口に「沖縄県」といっても様々な物事が異なることを期待しながら那覇空港発のトランス・オーシャン航空に乗った。ころは冬至前であった。

 機内放送で耳慣れない言葉が聞こえた。沖縄でよく使う「うちなーぐち(沖縄口)」ではない。最後に「ミィファイユ」という言葉が聞き取れたので、「ヤイマムニ(八重山言葉)」であることに気づいた。ユネスコの「消滅の危機にある言語・方言」の中で、「重大な危機」に面していると分類されているのが八重山方言および八重山諸島最西端の与那国方言である。CAの機内放送はたどたどしくはあるが、それでも放置すれば消えてゆくであろう言語文化を維持しようという思いは伝わってくる。空港に着くと「ようこそ」を表わす看板は沖縄口の「めんそーれ」ではなくヤイマムニの「おーりとーり」である。

 また、八重山の民謡は沖縄とは系列を異にする。代表曲「月ぬ美しゃ(つくぬかいしゃ)」にこのような下りがある。「東から上りおる大月ぬ夜 沖縄ん八重山ん照ぃらしょうり(東から登ってくる満月よ 沖縄も八重山も照らしたまえ)」という歌からも、少なくとも八重山では「沖縄」と「八重山」は別の土地だと認識されていたことが分かる。

 ただ、別の解釈もある。これは首里の王朝から奴隷的な搾取を受けてきた八重山の人々が民の苦労を月に訴えたというのだ。江戸時代を通して薩摩藩の実質的支配を受けてきた琉球王国は、奄美大島には黒糖を作らせて搾り取り、八重山や宮古島には世にも悪名高い「人頭税」を課した。これは十五歳から五十歳までの平民男女に均等に課された重税である。さらに女性には徹夜をして一糸乱れぬ完璧な織物を作らせ、首里に納めさせた。

本土では百姓が耕作地を放棄する「逃散」や、江戸などの大都市にわたって「無宿人」というホームレス状態の下層労働者となる方法もあったが、周りを海に囲まれた小島ではそれもできず、さらに残った者が逃げた者の人頭税を肩代わりしなければならないなどの罰則まであった。薩摩藩にとって琉球王国とは清朝との交易をすすめてその利益をむさぼる「鵜飼いの鵜」であった。しかし弱者であるはずの「鵜」がさらに弱い立場の植民地を作っていたのだ。石垣市立八重山博物館前には「人頭税廃止百周年」の記念碑が建っている。

 そんな石垣市内の名所が、琉球王国時代の官僚の邸宅とその庭園である。これら日本最南端の庭園は、宮良殿内(みやらどぅんち)庭園と石垣氏庭園だ。このような琉球庭園は沖縄本島には残っていない。首里城の庭も、識名園も、戦災で跡形もなくなったところに復元したものである。よって軍事攻撃が少なかった石垣市内のこの二つの庭の存在は実に貴重だ。南向きの門をくぐると、ぴんぷん(屏風)という目隠しの壁の向こうに赤瓦屋根の屋敷が広がり、その東側に琉球石灰岩の築山や石橋が連なる、いわゆる「枯山水」だが、芭蕉や蘇鉄、がじゅまるなどの亜熱帯植物が生い茂るも面白い。貴重な文化財として楽しむ一方で、これらの屋敷の主は地頭としてこの島に君臨したという事実も思い出しつつ、宿に戻った。

 

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