ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

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長岡の「真面目さ」

先述したKのモデルの松岡譲(ゆずる)は、現長岡市南部に位置する鷺巣(さぎのす)という農村の出身である。

残雪残る四月初旬、長岡を訪れた。JR長岡駅前にアオーレ長岡という複合交流施設が見える。杉のパネルが外壁に市松模様に設置されたその外観は、いかにも隈研吾らしい設計だ。この場所には本来長岡城があったが、地元で「北越戦争」とよぶ戊辰戦争で落城した後、廃城となった。そこに鉄道を敷設したので、城跡さえ残っておらず、駅前の目立たぬところに長岡城跡の石碑が残るのみだ。試みにタクシー運転手に「長岡城はどこですか?」と聞くと、郊外の小高い丘に位置する天守閣の形をした郷土史料館に長岡城があったと答えたが、そこに城があったわけではない。市民、しかもタクシー運転手からも忘れられた城なのだ。

長岡藩と言えば戊辰戦争の際に中立を唱えたが受け入れられず、奥羽越列藩同盟の一つとして近代化させた軍隊が官軍(西軍)に苦戦を強いたが、落城したことで知られる。家老にして陽明学者だった河合継之助を顕彰する記念館は駅から近いところにあり、彼が導入した当時日本に三門しかなかった最新式のガトリング砲が復元展示されている。しかし被弾してから態勢を立て直そうと同盟国の会津藩に向かう途中で亡くなった。藩政立て直しにすべてをかけた「真面目な」生涯であった。

戊辰北越戦争の後、焼け野が原となり、財政破綻しただけでなく、「賊軍」の汚名を着せられた長岡を再興すべく立ち上がったのが、旧長岡藩の大参事、小林虎三郎である。窮状に同情した支藩の三根山藩から米百俵の支援を受けたが、小林はそれを食べなかった。米は食べればなくなるが、米を金に換えて教育にあてれば長岡の復興が早まるとして、新しい時代に合わせた教材の購入と教師への謝礼に使ったのだ。なんと「真面目な」人々であろうか。

そしてその恩恵を受けた人物が戊辰北越戦争の十数年後にこの町に生まれ育ち、教育を受けた山本五十六である。後の連合艦隊司令長官となった彼は海軍兵学校で学び、会津の婦人を娶った。そしてハーバード大学に留学したのち、1923年のワシントン海軍軍縮条約、1929年のロンドン海軍軍縮条約などの締結の場にも参加した。日独伊三国同盟に関しては反対だったが、その声は届かなかった。館内には彼の名言が展示されている。

苦しいこともあるだろう。

言いたいこともあるだろう。

不満なこともあるだろう。

腹の立つこともあるだろう。

泣きたいこともあるだろう。

これらをじっとこらえてゆくのが、男の修行である。」

真面目の極致である。

 

「先生」の遺書

長岡藩という土地柄の「真面目さ」を理解していただいたうえで、Kと同じく長岡の「先生」の「私」に対する遺書を見てみよう。

私は何千万とゐる日本人のうちで、たゞ貴方丈に、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云つたから。私は暗い人生の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上ます。

Kと先生のこだわってきた「真面目さ」が、いかに価値のあるものだったか想像できる。遺言は続く。

然し恐れては不可(いけ)ません。暗いものを凝(じ)つと見詰めて、その中から貴方の参考になるものを御攫(おつか)みなさい。

暗いものも恐れずにじっと見つめ、学ぶべきことをつかめ。これは先生が、そしてKが引き継いだものに違いない。だとすると、その受け継いでほしいものは、なんだったのだろうか。

 

 「明治の精神」に殉死

1912年、明治天皇が崩御すると、陸軍大将乃木希典(まれすけ)が夫人とともに殉死した。西南戦争の際、官軍として出陣したところ、軍旗を奪われるという失態を犯した。しかし明治天皇に許されただけ。それだけではなく、日露戦争の旅順攻撃で何万もの将兵(=天皇の兵)を失ったことを詫びるためとされる。その知らせに関して「先生」はこう述べる。

夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟(ひっきょう)時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。

「最も明治の影響を受けた私ども」というが、明治を生きた「先生」の人生の前半は長岡の「賊軍の子弟」として過ごさざるを得なかったはずである。長岡をはじめとする奥羽越列藩同盟を否定することで成り立っていた、薩長中心の明治政府とともに死ぬいわれはない。「先生」は妻に向かってさらに冗談めいて自殺をほのめかす。

私は妻(さい)に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答も無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

ここまで読み進めると、「先生」が殉死しようとする対象が「薩長が作り上げた明治政府や明治天皇のための殉死」=「古い不要な殉死」ではなく「自分の歩んできた道を引き継いでくれる人間が現れたので、それを引き継がせ、これまでの罪を清算するための殉死」というように「自分の道に殉ずる」という個人主義が新しい大正時代にふさわしいと感じたのではなかろうか。

 

「真面目さ」のバトンタッチ

とはいえ、いくぶん小説の中の話なので、「K」と「先生」が長岡出身なのかは謎である。ただ、漱石の没後、「男手が必要だから」という理由で漱石とその妻、鏡子の娘を松岡譲に嫁がせたのは、鏡子が「こころ」にこめられた漱石の想いを受け継いでほしい相手を理解していたからではなかろうか。

「K+先生=長岡人」説が正しいとするなら、「真面目」な気風が明治になって失われ、それでもKは真面目さを守り通し、真面目であるがゆえに自殺した。その真面目さを「先生」はKから受け継いだ。それを受け継いでくれる若者がようやく見つかった。それが「私」である。「真面目さのリレー」で次にバトンタッチできる人を見つけたのだ。

そしてこの物語を読んだすべての人々に、バトンタッチするべく、漱石は「こころ」を書いたのではなかろうか。なぜなら漱石も真面目に激動の明治を生き抜き、度重なる吐血をおしてこの大作を書き上げてきたからだ。しかも執筆中の1914年には第一次世界大戦がはじまり、可視化された「死」が世界を覆いつつあったこともある。

早稲田で生まれ育ち、松山、熊本、ロンドンを経て千駄木からふるさと早稲田に戻った漱石は、「こころ」を書き下ろした二年後の1916年、早稲田の漱石山房で49年の人生を終えた。死因は糖尿病とされる。最期の言葉は「いま死んだら困る」だった。

漱石山房裏手は漱石公園となっており、漱石の胸像や「猫塚」が置かれている。道草庵という休憩所には、松山市の俳句ポストが置かれ、漱石を偲びに来た人々が一句作って投函している。あの世で同じく度重なる吐血の末なくなった親友、正岡子規とともに一句ひねっている様子が想像できてほほえましい。

 


 [高田1]

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「こころ」が執筆された漱石山房

東大生愛読書の第一位に輝いた作品が漱石の「こころ」だっいう。主人公の一人は学生時代に下宿先のお嬢さんを親友「K」からだまし討ちのような手段で奪い、自殺に追い込んでしまった後、なすべきこともなく日々遺産で暮らしている中年男だ。そしてこの知識人くずれを「先生」と呼んで人生の師とみなす学生の「私」。結局「先生」は明治天皇の崩御とともに殉死した乃木大将の知らせを聞くと、「明治の精神」なるものために殉死し、それまでの人生を書き綴った分厚い手紙を遺書として「私」に送った、というこの名作中の名作は、私を含む多くの日本人が高校の教科書で接してきたものだろう。

一般的に人気の高い「猫」や「坊っちゃん」に比べると、明らかに暗く重い。問題に対して諧謔で肩透かしを食らわせる「猫」や、真正面にぶつかる「坊っちゃん」とは全く異なる、陰にこもる主人公たちによる「真面目な」文体であるが、近代日本人はこの作品のなにに惹かれてきたのだろうか。

この作品が書かれたのは「猫」や「坊っちゃん」とは異なり、大正時代である。そして漱石は大学の教師をやめ、朝日新聞の社員という立場の職業作家であった。そしてなによりも、胃潰瘍のために何度も吐血し、死を覚悟しつつ書かれた「遺書代わり」の作品ともいえる。

東京メトロ早稲田駅のすぐそばから漱石山房通りなる道路が伸びている。周辺には誕生の地があり、通りを10分ほど歩いていくと、新宿区立漱石山房記念館および漱石公園に着く。ここは漱石が晩年の1907年から9年間居住したところで、毎週木曜午後には弟子だけでなく、一般人まで面会を許される「木曜会」というサロンが開かれていた。

大正時代に児童文学「赤い鳥」を発行した鈴木三重吉や、当時「羅生門」を発表した新進気鋭の作家、芥川龍之介など、そうそうたるメンバーがこれに参加したという。ちなみに漱石の死後、芥川は「赤い鳥」に「蜘蛛の糸」を発表するなど、後の日本文学にも大きな影響を与えるきっかけとなった場所でもある。その後1945年の空襲で焼失したため、漱石の没後百後に「漱石山房記念館」として書斎が館内に復原された。

小春日和の木曜日の午後、ここを訪れた。一番の見ものである書斎は、当時あった本の一冊一冊までが東北大学附属図書館の漱石文庫にあるものを復元した手の込みようだ。漱石を囲む人々が文学論や人生論など、談論風発していた当時が偲ばれる。そしてここで書かれた原稿で最も知られているのが、他でもない「こころ」である。

 

新潟と浄土真宗

「こころ」に限らずだが、名作には読む人の数だけ解釈がある。そして「こころ」の解釈においての最大の関心は、おそらく「Kと『先生』はなぜ自殺をしたのか」、そして「明治の精神とはなにか」に集約されそうだ。私はKと「先生」の地元に注目してこのことについて考えてみたい。

小さいころからのライバルだった二人は新潟出身である。Kのモデルとして、漱石の弟子のなかでは、石川啄木でなければ熊本時代に生まれた長女筆子の夫、松岡譲が有力という。啄木もKと同じ僧侶の息子で勘当されているが、出身は岩手県出身である。一方、木曜会に出入りしていた松岡譲は長岡市の真宗大谷派、本覚寺住職の息子だが、明治期の仏教界が腐敗しているように思われ、僧籍を継ぐのを拒否した。その背景や、宗教的潔癖症がKをほうふつとさせるではないか。

ちなみに真宗というと、漱石自身は特に宗派にこだわるほうではなかったようだが、夏目家は文京区小日向の本法寺を菩提寺とする。しかし彼自身は雑司ヶ谷に個人の墓地を造らせたことから、熱心な真宗門徒とはいえなかったろう。

とはいえ彼の俳号は「愚陀佛」であるのに注目したい。「陀佛」=「南無阿弥陀佛」というのはすぐにわかるが、真宗門徒ならば「愚」と聞くと開祖親鸞聖人が「愚禿(ぐとく)」を名乗ったことを思い出すのではないか。当然あの漱石がこの事実を知らないわけはなかろう。

 

「馬鹿」と「愚」

求道者のようにストイックで、赤貧のなか学問に打ち込むKを自らの下宿に住まわせる「先生」だが、そのうち「先生」が心を寄せていた下宿先のお嬢さんにKが惚れてしまう。そのことを「先生」が知ると、奥手だとばかり思っていたKにお嬢さんを横取りされてはたまらないと思った「先生」はこう言い放つ。

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」私は二度同じ言葉を繰り返しました。さうして、其言葉がKの上に何(ど)う影響するかを見詰めてゐました。「馬鹿だ」とやがてKが答へました。「僕は馬鹿だ」

「馬鹿」という言葉は学問の道を歩まず、女にうつつを抜かしている自分自身に投げた言葉だろうが、真宗的な流れでいえば宗祖親鸞聖人にあやかる良い意味にもとれなくもない。ちなみに親鸞は京都で布教していたのだが、後鳥羽上皇の怒りを買って越後の現上越市に流された。そこで当時の僧侶としては破戒となる肉食妻帯を行う。そこに悩みがなかったはずがない。そのような関係もあって越後は東日本最大の真宗王国となった。

Kは真宗の家で生まれ育ったとはいえ、こと女性に関しては非真宗的な潔癖症である。いや、家業である真宗寺院を継がなかったということからして、反真宗的ともいえる。しかし家を捨てて学問に身を投じながら女性問題で悶え悩むところは「愚禿」、つまり仏道を志し頭も丸めてみたものの煩悩にまみれていることを自覚していた宗祖親鸞そのものではないか。

 

「真面目」ということ

「私」は「先生」に人生における様々な教えを受けるために、しばしば「先生」宅を伺う。あるとき、このような会話が交わされた。

「あなたは大胆だ」

「たゞ真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」

「私の過去を訐(あば)いてもですか」

訐くといふ言葉が、突然恐ろしい響を以て、私の耳を打つた。私は今私の前に坐つてゐるのが、一人の罪人であつて、不断から尊敬してゐる先生でないやうな気がした。先生の顔は蒼かつた

「私」はどこの出身とは書かれていないが、新潟とは反対方向に住んでいる設定だ。その「真面目な私」が「先生」を「罪人」のように見えてきたという。「罪人」というとクリスチャンのようだが、これは真宗用語の「悪人」すなわち煩悩だらけで救われない人だから、かえって阿弥陀如来の救済の第一候補に挙がる人に思えてくる。さらにこの会話はこう続く。

「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。

「私は過去の因果で、人を疑りつけてゐる。だから実はあなたも疑つている。然し何(ど)うもあなた丈(だけ)は疑(うたが)りたくない。あなたは疑るには余りに単純すぎる様だ。私は死ぬ前にたつた一人で好いから、他を信用して死にたいと思つてゐる。あなたは其(その)たつた一人になれますか。なつて呉れますか。あなたは腹の底から真面目ですか。」

「先生」は目の前の「私」という若者に一縷の望みを託している。そしてその望みを託すべき若者が「真面目」かどうか、なんども確認している。自分の信用すべき人間はまじめでなければならないと考えているのだ。

新潟県の「県民性」について調べてみると、「勤勉」「我慢強い」そして「真面目」という三点に集約できる。雪国であることがこのような県民性を形成したというが、同じような県民性は日本海側から東北地方にも共通している。Kにしても「先生」にしても、たとえ悪人であれ、まじめでなければならないのだ。

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「満洲」-差別と憧憬の狭間で

1903年に帰国した後は、東京帝大で英文学を教えた、奇しくも前任者はまたしても小泉八雲ことラフカディオ・ハーンだった。八雲の文学的な講義に比べ、漱石は分析的で、八雲ファンだった学生たちからはボイコットまで受けたという。東大教授をやりながら千駄木の家で執筆活動に励み、「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」を「ホトトギス」に発表し、「虞美人草」「夢十夜」「三四郎」等を朝日新聞に連載した。

そして1909年、旧友が南満州鉄道株式会社(満鉄)の総裁になっていた関係もあり、満洲及び韓国をまわり、その紀行文を「満韓ところどころ」として朝日新聞に掲載することとなった。これは漱石の「隠し子」的作品といっても過言ではない。なにせ「近代的自我」を追求し続けた国民作家による「ヘイトスピーチ」に取られても仕方ない表現がノンストップで続くのだ。以下、具体例を三つ挙げよう。

「河岸の上には人がたくさん並んでいる。けれどもその大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚ならしいが、二人寄るとなお見苦しい。こうたくさん塊るとさらに不体裁で…」

「その昔日露戦争の当時、 露助 が(中略)土の中に埋めて行ったのを、チャンが土の臭を嗅いで歩いて、とうとう嗅ぎあてて…」

「彼等は舌のない人間のように黙々として、朝から晩まで、この重い豆の袋を 担ぎ続けに担いで、三階へ上っては、また三階を下るのである。その沈黙とその規則ずくな運動と、その忍耐とその精力とはほとんど運命の影のごとくに見える。」

時代を反映して、現在使われない言葉もあるが、「クーリー(苦力)」とは中国人肉体労働者、「チャン」とは中国人に対する蔑称である。ちなみに三つめはクーリーに敬意を払っているように見えて、実際は「日本人ならやらないことをこいつらはやっている」という目で見ているに過ぎない。

より直接的な表現が、彼が哈爾濱(ハルピン)を訪れた一月後に哈爾濱駅で朝鮮統監伊藤博文が安重根に暗殺された事件に鑑み、満洲の日本語新聞に寄稿した「満韓所感」にもみえる。

内地に跼蹐(きょくせき)してゐる間は、日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、日本人も甚だ頼母しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた。

つまり、英国でアジア人としての劣等感にさいなまれ、ノイローゼにまでなり思い詰めていたのだが、日露戦争後の満洲や朝鮮では日本「優越者」となっているのを見て単純に誇らしく思っているようなのだ。そこに被支配者の抱いた憤りや屈辱、なぜ安重根が立ち上がらねばならなかったかなどについて思いをはせることはない。そして次のように締めくくる。

同時に、余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵児と云はねばならぬ。」

ちなみにこの文章は2010年に「発掘」されると、まず右派が注目し、この部分だけ反中嫌韓の言説として切りぬかれ、「あの漱石先生も100年前からこう言っている」という「証言」とされている。漱石は果たしてそのような差別主義者だったのだろうか。

 

目の前の清国と脳内漢詩文の世界のはざまで

 これらだけを見て、日露戦争後に事実上日本の支配下に置かれた満洲(関東州)に対する彼のまなざしを批判するのは簡単である。しかし詳細に見ると、次のように伝統的な中国文化、大陸的な鷹揚さに対しては尊敬の念を素直に表している。

「主人は背の高い大きな男で、支那人らしく落ちつきはらって立っている。」

「いろいろ御世話になってありがたいから、御礼のため梨を三十銭ほど買って帰りたいと云うような事を話してくれと頼んでいる。それを(中略)支那語に訳していると、主人は中途で笑い出した。三十銭ぐらいなら上げるから持って御帰りなさいと云う…」

「後藤さんも満洲へ来ていただけに、字が旨くなったものだと感心したが、その実感心したのは、後藤さんの揮毫ではなくって、清国皇帝の御筆であった。」

 漱石は少年時代から漢文をよくし、漢詩を作るほどの能力までもっていた。しかしどうやら中国語会話を本格的に学んだという形跡はなさそうだ。満洲旅行中も通訳者の力を借りている。脳内の漢詩文の世界に対する憧れと、目の前の「汚く遅れた」世界のギャップにどう対処してよいか戸惑っているようなのだ。しかも現実の満洲はそれだけではなく、「内地(≒日本)」よりも進んでいるものも散見されることだ。例えば道路工事を見た時、

「内地のように石を敷かない計画らしい。 御影石が払底なのかいと質問して見たら、すぐ、冗談云っちゃいけないとやられてしまった。これが最新式の敷方なんで、(中略)内地から来たものはなるほど田舎もの取扱にされても仕方がない。」

「あれは何だいと車の上で聞くと、あれは電気公園と云って、内地にも無いものだ。 電気仕掛でいろいろな娯楽をやって、大連の人に保養をさせるために、会社で拵えてるんだと云う説明である。」

というくだりは考えさせられる。デジタル化に関しては中国のほうが日本より急速に変化する21世紀の日中関係とよく似ているが、当時の満洲の急速な発展は日本が占領し、現地でのしがらみをみな無視して計画を進めていったという背景があることを、漱石なら分かっていたはずだ。

伝統的な漢詩文の世界と現在の封建制および帝国主義にさいなまれる清国、そして日本よりも進んだ近未来社会が渾然一体となったのが当時の満洲だったように思える。

 

「猫」×「坊っちゃん」で満洲を歩く

私は特に漱石びいきではないが、この葬り去られたかのような紀行文に、「坊っちゃん」のなかではちきれそうな「弱気を助け強気をくじく」まっすぐな批判精神を、「吾輩は猫である」にあふれる諧謔という方法に置き換えて、大日本帝国の植民地統治を茶化しているように思えてくるのだ。例えばこの紀行文の冒頭の文は確信犯的な皮肉である。

「南満鉄道会っていったい何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄の総裁も少し呆あきれた顔をして、御前もよっぽど馬鹿だなあと云った。」

当時の国策会社であった満鉄を知らないというのは、令和の知識人が電通のトップに「電通ってなにする会社?」というようなもので、その背後にある政治性を知らないはずではない。ちなみに電通は満鉄のDNAを受け継いでいるということは、ここでは語るまい。

満鉄に招待された彼は、いわば「国賓待遇」で贅沢な大名旅行をさせてもらっている。この視察が単なる旧交を温めるためのものではなく、満鉄の満洲経営を肯定的に書いてほしいという意図が、この国民作家に期待されていたということは、漱石もわからなかったはずがない。

国民作家として名を成した彼が、だまされた振りをして植民地とやらに赴き、見聞きしたものを面白おかしく書いてやろう、というのが本当のところではなかろうか。そもそも「漱石」という名の由来は、「漱石枕流」という中国の故事に由来する。昔ある武将が、「漱流枕石(水の流れで口を漱ぎ、石を枕にして寝る)」というべきところを「漱石枕流」と言ってしまったが、いや、これで正しいのだ、と自分の非を認めなかったことから、負けず嫌いの頑固者のことを「漱石枕流」という。「坊っちゃん」そのものではないか。

著名人とはいえ権力とは無関係の漱石は、国家権力の恐ろしさを知っていた。ただし権力に正面からぶつからず、清国人を汚いと罵る振りをして、日本人の思い上がりを演じて見せたのではないか。そして彼らにも尊敬すべきところもあれば、日本以上に進んでいるところもあることを紹介したのがこの作品なのではないか。そう思うと冒頭に出てきた「汚い」云々のくだりも頭ごなしに否定できない。

時代は前後するが、渡満前のロンドン時代に周囲の日本人が清国人に間違えられて不愉快だと迷惑がっていた当時、漱石はこう述べている。

日本人を観て支那人といわれると厭がるは如何。支那人は日本人よりも遥かに名誉ある国民なり。ただ不幸にして目下不振の有様に沈淪せるなり。心ある人は日本人と呼ばるるよりも支那人といわるるを名誉とすべきなり。仮令(たとえ)然らざるにもせよ日本は今までどれほど支那の厄介になりしか。少しは考えて見るがよかろう。

彼は目の前の中国人のなかに、日本文化の源流を作り上げた「偉大なる支那文化」の片鱗を感じていたのだろう。それはたとえるなら昔世話になった先生が亡くなり、その息子が犯罪者になっていたとしても、息子を目の前にすると顔立ちなどに先生の影をみるようなものかもしれない。そして彼は続ける。

西洋人はややともすると御世辞に支那人は嫌だが日本人は好だという。これを聞き嬉しがるは世話になった隣の悪口を面白いと思って自分方が景気がよいという御世辞を有難がる軽薄な根性なり。」

本人がいないときにその人の悪口をいう人も言う人だが、それを聞いて喜ぶ人のレベルの低さを嘆くだけの「常識」は、彼も持ち合わせているのだ。

ちなみに「満韓ところどころ」とはいいながら、大韓帝国に関する記述はほぼない。というのも先述の通り哈爾濱で伊藤博文が安重根に殺害されたため、韓国周遊のネタは打ち切られたようだ。いずれにせよ、そのような政治的な制限をうけたぎりぎりのところで執筆したが、じきに忘れられた、しかし忘れてはならない小品である。

 

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熊本の漱石―わが輩通りと銅像

1896年、漱石は松山からさらに西の熊本に移った。前任者は松江から移ってきたラフカディオ・ハーンだったが、彼に代わり、第五高等学校の教授として英語等を教えたのが漱石だったのだ。当時はお雇い外国人の給料が国費を圧迫しつつあり、外国人教師から日本人教師への「代替わり」が進行中というのがその背景だ。

JR上熊本駅は漱石が熊本に到着した時に下車した駅なのだが、そこには往時の駅舎が部分復元されており、駅前には彼の全身の銅像も立っているだけでなく、そこからのびる道は「吾輩は猫である」にちなんで「わが輩通り」と名付けられている。

四年あまりの熊本滞在で六回も引っ越した彼だが、最も長く住んだ内坪井旧居は「わが輩通り」を南東に2キロほど進んだところにある。大きな平屋建ての床の間にかかる掛け軸には「則天去私」という座右の銘が大書されている。ここで新婚生活を営み、長女もここで生まれたというが、情緒不安定な妻のヒステリーには閉口したようである。しかし一方で五高の生徒たちのたまり場にもなり、物理学者にしてエッセイストの寺田寅彦らに囲まれ、まずまずの日々を送っていたようである。

漱石の教えていた五高は、現在熊本大学黒髪キャンパスとなっている。往時の赤レンガの学舎は博物館となって公開されており、もちろん漱石関連の資料もあれば、銅像および句碑まである。彼は自宅で学生たちに子規仕込みの俳句まで教えていたのだ。

 

嵐の前の静けさー可も不可もない熊本時代

熊本地震の年の暮れに熊本を代表する名園、水前寺成趣園に行ってみた。東海道五十三次の光景を歩きながら巡るという趣向のこの庭の「主」は、北斎が描いた勾配の急な富士山を立体化させたかのような築山だ。遠く阿蘇山の伏流水がここまで流れてくるというが、水温は年間通じて17度から18度なので冬になり外気が冷たくなると水面から水蒸気がたつという。そこで漱石も一句詠んだ。

しめ縄や 春の水湧く 水前寺

私が訪れたときは正月前でも暖かく、あいにくこの句のような光景は見られなかった。

近くには彼が一時滞在していた大江旧居や、彼に関する資料のあるくまもと文学・歴史館があったが、ちょうど改装中で閉館していた。

ここから玉名市の峠を登りながら考えたことが、後に「草枕」として次の名文を生んだ。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

 地元にはその名も「草枕交流館」があり、漱石とこの作品をアピールしてはいるのだが、「坊っちゃん」と「草枕」ではあきらかに人気度では前者に軍配が挙がる。松山が「坊っちゃん」を地域振興のコンテンツとして活用する反面で作者漱石には「塩対応」めいた感が否めないのに対し、熊本は漱石に片思いしているかのようである。

漱石の熊本時代は、その後に比べると「可もなく不可もなし」といえよう。この後、彼は文部省からの要請で英国に留学させられた。英語習得および英語教育研究という名目があったが、彼は気が進まなかった。日本人が英語をマスターしたところでなんになる、という思いがあったからだ。そして彼の本格的な苦しみは英国に渡ってから始まる。後になって思えば、熊本時代は「嵐の前の静けさ」だったことがよくわかる。

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漱石の英国時代―「もっとも不愉快の二年」

漱石の英国時代についてはひとことで言えば「最悪」であったといえる。金銭的な困窮、体調の悪化、欧米文明の中に身を置くことの緊張感と劣等感、そしてそれらがもたらしたのが、極度の情緒不安定と鬱状態であった。「文学論」にはこう著している。

倫敦に住み暮らしたる二年はもっとも不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍(ご)する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり

それまで英語や英文学に真剣に取り組んできたとはいえ、視覚のみによる活字の世界の西洋と、聴覚、嗅覚、触覚など、あらゆる感覚に一度に襲われた結果、物理的にも生理的にもそして精神的にも悲鳴をあげてしまったのだ。漱石がロンドンで書いた書簡には以下のような悲痛なものが目立つ。まずは語学面だ。

英語モ中々上手ニハナレナイ。第一先方ノ言フ事ガハツキリ分ラナイコトガアルカラナ。金ガナイカラ倫敦ノ事情モ頓トシレナイ。

会話は一口話より出来ない。『ロンドン』児の言語はワカラナイ。

吾輩は日本におっても交際は嫌いだ。まして西洋へ来て無弁舌なる英語でもって窮窟な交際をやるのは尤も厭いだ。

英語専攻で日本を代表するエリートでさえ英語で苦労していた。しかも恥も外聞もなくそれを吐露するまで追い詰められていたのだ。

 

「背ノ低キ妙ナキタナキ奴」の苦悩

さらに、西洋からすると頑迷固陋な遅れた東洋から来たという劣等感に打ちひしがれただけでなく、身長158㎝という小柄なこの東洋人は身体的にもコンプレックスがあった。

往来ニテ向ウカラ背ノ低キ妙ナキタナキ奴ガ来タト思エバ、我姿ノ鏡ニウツリシナリ。我々ノ黄ナルハ当地ニ来テ始メテ成程ト合点スルナリ。

結局彼は大学の授業に参加してディスカッションなどをするのではなく、なけなしの金で専門家の個人授業を受け、節約して余った金で必読書を買い求めるという二年間を送ったに過ぎない。文部省から中間報告のレポートを求められた折りは、なんと白紙で提出するありさまだった。そこで「漱石が発狂した」といううわさが日本にまで広がり、帰国することとなった。

この満身創痍の留学で得たものは英語や英文学などではなかった。遅れた東洋の小国で真剣に西洋文明と取っ組み合いをし、チャンピオンになったかと錯覚したエリートが、本場に行ってもどれだけ役に立たないか、ということの証明が最大の収穫だったと言えまいか。

 後年、学習院大学での「私の個人主義」という講演でロンドン時代を振り返り、

私は多年の間懊悩した結果、ようやく自分の鶴をがっちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。

と述べている。しかし身体というのは正直なもので、もともと丈夫ではなかったのに英国で過酷な二年間を過ごしたため、帰朝後の漱石は「鉱脈を掘り当てた」とはいえども常に病気と闘わねばならなくなってしまった。 

 ここで、もし漱石が同時期に北米に移民に行った日系人たちのように知的エリートでなかったら、あるいは知的エリートだったとしても滞在先が満洲だったら、あれほどの精神的苦悩に襲われなかったのではなかろうか。ただ先進文明と傷だらけの知的格闘を経てきたからこそ、後の「近代的自我」に煩悶する主人公をテーマとした数々の名作が生まれたのだろう。「雨降って地固ま」ったのだ。

悩みに悩みぬき、西洋文明だけではなく自分自身と真正面に格闘したこの二年間は、いわば彼が鎌倉円覚寺で挑戦したが中途半端で終わった禅のようなものに思える。ロンドンで掘り当てた「鉱脈」とは禅寺で開いた「悟り」のようなものだろう。こう考えるとロンドン留学はいわば自己と向き合う坐禅修行の時期に思えてくるのだ。(続)

 

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「坊っちゃん」の面々

松山に愛媛県尋常中学校の教師として漱石がやってきたのは1895年、日清戦争の下関条約締結の年だった。ここで教鞭をとった約一年間の思い出が、後に「坊っちゃん」となったのは言うまでもない。

小学校一、二年生のとき、はじめて母に読んでもらった文学作品がこれだった。「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」で始まるこの名作を、当時の私がどれだけ理解していたのかは記憶にないが、好きなキャラクターは竹を割ったような正義感あふれる江戸っ子の坊っちゃんと、どこか影がある頑固一徹な会津人、山嵐であった。もちろんそのころの私は戊辰戦争など知る由もない。ただ

「きみはどこだ」 「僕は会津だ」 「会津っぽか、強情な訳だ」

というくだりから、会津という場所があり、なぜか知らないがそこの人は強情であるという感覚を持つようになっていた。

江戸っ子、しかも元旗本の子の坊っちゃんの盟友が会津の山嵐であるとすると、彼らを管理下に置こうとする陰険で西洋かぶれの教頭「赤シャツ」は、薩長の藩閥政治をほうふつとさせる。さらに赤シャツの腰巾着が、同じく江戸っ子の「野だいこ」であるということは、文明開化で皮相な西洋文化にかぶれる東京人を揶揄しているのだろう。

さらにクライマックスで赤シャツが芸者遊びをしているのを坊っちゃんらが見つけて懲らしめたというのは、弱者の立場に置かれた旧幕府勢力への挽歌にも思え、一時的にはすっきりしても、それによって坊っちゃんらは何を得たわけでもない。

子どもの頃読んでもらった折には面白かったのだが、大人になってから読むと、地方蔑視だけでなく、坊っちゃんや山嵐はしょせん学校を去ることになっても、陰険な赤シャツらは学校という体制を牛耳っていることに気づく。さらに想像をたくましくするなら、日本を発展させたのは、空回りの正義感あふれる坊っちゃんや山嵐ではなく、頭脳派でいち早く国際社会に適応した赤シャツたちに他ならない。

 

松山=明治日本そのものか?

ここまで考えてなぜ松山の人々が「坊っちゃん」を受け入れるのか理解できるような気がしてきた。坊っちゃん=松山を揶揄する江戸っ子、というのは表面上の話で、松山というのは愛媛県の県庁所在地ではなく、中途半端に西洋かぶれした似非日本人、似非西洋人あふれる明治期の日本のメタファーと割り切っているのではないか。

そしてこれまで歩んできた自分の道を軽々捨て、西洋化こそが本来の道とばかりに邁進する明治の世相に鉄槌をうち、「戦闘では勝ったが戦争では敗れた」という頑迷固陋な江戸っ子と会津っぽが主人公の作品なのだ。

ここである意味最も人気のあるキャラクターを忘れている。日本が歩んできた道を体現する存在が、坊っちゃんを目に入れても痛くないほどかわいがる乳母の「清(きよ)」である。江戸時代そのままを引きずりつつ明治時代を生きてきた、この無償の愛の持ち主こそ、「坊っちゃん」の裏の主人公である。

これはやはり江戸時代への懐古的な思いと、それに別れを告げて近代を生きていかざるを得ない明治人の物語である。坊っちゃんが罵ったのは松山そのものではない。激動の時代で「ストレイ・シープ」となり、本来の自分を見失った日本人を徹底的に批判しているのだ。

 

愚陀佛庵と「だんだん」

その漱石が下宿していたのが、後に愚陀佛庵と呼ばれる日本家屋である。ここに滞在しているときに東京で療養していた子規が帰省し、52日間を共に過ごした。子規が階下に、漱石が二階に住んでいたのだが、子規はしばしば句会を開き、漱石も子規の俳句の門弟となった。

愚陀佛は 主人の名なり 冬籠

という句を残していることからもわかるように「愚陀佛」とは漱石の俳号である。漱石の時代には市街地にあった愚陀佛庵だが、戦災で焼失し、1982年に城下の萬翠荘という洋館のそばに再建された。しかし2010年の豪雨による土砂崩れで全壊しまい、現在はその一階部分が道後温泉近くの子規記念博物館に再現されているのみだ。

萬翠荘入口にはいかにも安藤忠雄らしい打ちっぱなしのコンクリート建築、坂の上の雲ミュージアムが目を引く。明治時代を生きた子規と、日露戦争を率いた秋山兄弟をモデルとしたこの作品は、司馬遼太郎の小説の中でも特に人気が高く、NHKでもドラマ化された。ちなみに漱石も出ては来るが、あくまで常連の脇役であり、ミュージアム内にも漱石に関する展示は多くはない。

このドラマには原作の活字では味わえない面白さがあった。主人公たちの話す伊予弁である。山陰人の私にはあのドラマの方言にどれくらい真実性があるかは分からないのだが、山陽人が山陰の言葉を話しているような新鮮さがあった。中でも理屈抜きで嬉しかったのは、子規たちが礼を述べる時に「だんだん」という場面が幾度も出てくることだ。これは江戸時代の京都の遊里言葉だったのが西日本各地に広まったものというが、私のふるさとの出雲周辺では今なお日常的に使っている。

あいにく現在の伊予弁では死語となりつつあるようだが、おそらくこの町に滞在した漱石も、当時はこの言葉を頻繁に聞いていたに違いない。

道後公園の連歌と「俳都」

子規の実家は松山市駅近くに「子規堂」として復元されているが、それとは別に道後に子規記念博物館がある。その一帯は中世の城郭、湯築城があったところで、「道後公園」として開放されている園内には武家屋敷が復元されていた。そこで驚いたのは、資料館となっている屋敷内で五、六人の着物を着た武士や僧侶のマネキンが頭をひねりながら連歌会をしている場面の復元だった。

実は私が松山で見聞きしたものの中で最も感銘を受けたのは、松山城でも道後温泉でも子規庵でもなく、この中世城郭の連歌会の復元だった。他の城郭ならば鎧兜や刀など「武」の展示になるのだろうが、松山市はここに連歌会という「文」を再現しているのだ。

連歌とは、歌人たちが車座になり、最初の一人が五七五の発句(ほっく)を詠みあげると、次の人がそれに続く句を七七の句で繋げるという、チームワークによる文学表現である。戦国時代に宗祇によって大成されたとされる連歌が江戸時代に俳諧となった。近代俳句の都であるこの町が中世城郭を復元するにあたり、俳句のルーツである連歌を行う様子を再現するという「温故知新」こそ、この町を「俳都」であることの証明だろう。松山の人々はグローバリズムにのって自分を見失う「赤シャツ」ではないのだ。

松山の町を駆け足で歩いてみて改めて気づいたのは、この町は漱石ファン向けに「坊っちゃん」というコンテンツを地域おこしのために活用するが、夏目漱石という一時滞在者についてそれほど重きを置いているわけでもなさそうだ。ここに「漱石<坊っちゃん」という図式が思い浮かんだ。それよりも地元の子規や虚子、碧梧桐らの広めた写実的な近代俳句を誇り、その活動の舞台としての愚陀佛庵や子規堂、そして俳句のルーツとしての連歌師たちが道後公園の武家屋敷に復原されているのである。

松江の茶道文化と肩を並べるか、それ以上の本物の精神文化と、それを引き継ぎ、次の世代に伝えていく人々の営みを確認してから、この「俳都」を後にした。

 

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松山と松江

ソウルの街を歩いていると、「ここは東京でいえば〇〇だな」と、いつも東京と比べている自分に気づく。同じように松山を歩くときはいつも「これは松江でいえば○○だな」と、生まれ故郷の隣町、島根県松江市と比べ、「松松対決」が繰り広げられているのに気づくのだ。

たとえば松山城を見れば、松江城のほうが天守が高いことに気づく。そして幕末に建てられたこの松山城天守に比べ、江戸時代初期に建てられた松江城天守のほうが歴史もある。しかし櫓など、重文指定の建造物は松山城に軍配が挙がるし、連立式天守という珍しい様式も貴重である。

また、道後温泉に行けば、豪勢でありながら威厳を保つ道後温泉本館というアイコンには圧倒されるが、その周辺は雑居ビルやくたびれ果てた旅館などが雑然と並ぶ。道理で道後温泉の写真というとあの本館以外見たことがないと納得した。一方、小川の両岸に遊歩道を整備し、湯けむりの中をそぞろ歩ける、松江郊外の玉造温泉のほうがはるかに温泉街としての雰囲気において優れていることに気づく。しかしお湯そのものの泉質は源泉かけ流しの道後の湯のほうが循環させて利用する玉造の湯よりもはるかによい。

とはいえ玉造の湯を発見したのは大国主命の相棒、少彦名(スクナビコナ)命とされるが、このコンビが出雲から道後にやってきたとき、少彦名が瀕死の状態になった。そこで大国主命が瀬戸内海の向こうの別府からパイプライン(?)かなにかでお湯を引いて少彦名を蘇生させたのが道後温泉という。二つの湯は神々の湯としても縁があるのだ。

 

「坊っちゃん」でこき下ろされる松山

明治時代にそれぞれの町を訪れ、町を有名にした人物というと、松江はラフカディオ・ハーンこと小泉八雲、松山は夏目漱石だろう。前者は松江に前近代的な日本のこころを見出し、それを甘美かつ幻想的な英文で世界に知らしめた。ハーンの批判の対象は生まれ育った欧米であり、それを無批判に取り入れる明治日本だった。

そして後者は松山に前近代的な遅れと垢抜けなさを感じ、露悪的なまでに松山を茶化した。漱石にかかれば正岡子規が「春や昔 十五万石の 城下哉」と詠んだこの文化の香りあふれる松山も、次の通り田舎の代名詞として形無しである。

県庁も見た。古い前世紀の建築である。兵営も見た。麻布の聯隊より立派でない。大通りも見た。神楽坂を半分に狭くした位な道幅で町並はあれより落ちる。廿五万石の城下だって高の知れたものだ。こんな所に住んでご城下だ抔(など)と威張つてる人間は可愛想なものだ…

さらに松山の人々の性格についてもその舌鋒は容赦しない。

大方田舎だから万事東京のさかに行くんだらう。

こんな卑劣な根性は封建時代から、養成した此土地の習慣なんだから、いくら云って聞かしたって、教へてやったって、到底直りっこない。(中略)どうしても早く東京へ帰って清と一所になるに限る。こんな田舎に居るのは堕落しに来て居る様なものだ。」

前近代的なものを完膚なきまでに否定する。これに松山市民は怒るどころか、「坊っちゃん列車」に市内を走らせ、「坊っちゃん団子」を観光客に売り、道後温泉本館には「坊ちゃん湯」を設け、「坊っちゃん泳ぐべからず」の木札をかかげて「聖地化」する。さらに坊っちゃんエクスプレスに坊っちゃんスタジアムまであり、もしかしたら近代初の「町の聖地化」はこの松山から始まったのではなかろうかと思うほどだ。

くさされても、それをネタとして立ち上がる松山の人々には、他にはない割り切りとたくましさ、打たれ強さを感じる。山陰・松江の人なら「よそ者にはわしらの良さや歴史はわからんけん」といって陰にこもりそうだ。

 

茶の湯VS俳句

私の中で勝手に「文化的ライバル」となっている松山の町を歩いていると、松江にあってここにはない「あらさがし」をしてしまう。その代表が茶の湯の文化である。私は松江の城下町から数十キロ離れた田舎町で生まれ育ったが、実家には日常的に薄茶を点てる習慣がある。というのも19世紀初めの松江藩主、松平治郷(はるさと)、通称「不昧(ふまい)公」と呼ばれる茶人大名の影響が領内の隅々までいきわたったかららしい。

子どもの時に我が家の庭の剪定をしていた植木職人さんに、祖母が薄茶を点てると、職人さんは作法などにはこだわらず茶碗を両手で回してズズッと音を立てて「あー、うまい」とすすっていたことを昨日のことのように覚えている。抹茶というと構える人が少なくない中、旧松江藩領では薄茶への敷居が高くないのだ。そしてそれは松江の文化となり、明々(めいめい)庵、菅田(かんでん)庵という不昧公による茶室が残った。茶の都は和菓子の町でもあるので、「山川」、「春日」など、銘菓も多い。そういえば1989年に行われた地方博は、「松江菓子博」であった。私も帰ると、まず祖母の部屋で薄茶をいただき、荷を下ろす。

 

松江の茶は松山の俳句

こうした目に見えない茶の文化が、松山ではさほど目立たない。しかし逆に松江の茶の湯に匹敵する、目に見えずとも人々の心身に染み付いた精神文化が松山にはある。それが俳句だ。まず、あちこちに「俳句ポスト」なるものを見かける。どうやらこの町はただの観光客を「にわか俳人」にする雰囲気がある。「だれでも手軽に」句を詠んでしまうこの町の空気は、1998年に「俳句甲子園」を生み出し、全国の若き俳人たちの憧れの地にもなった。

さすがは子規だけでなく高弟の高浜虚子、河東碧梧桐を輩出し、瀬戸内海を挟んだ西隣の山口県防府で生まれた放浪の無季自由律の俳人、種田山頭火が死に場として選んだ松山だけある。近世日本に形成された文化遺産として、茶の湯と双璧をなすものが俳句であろう。そしてその地方伝播において特筆すべきものが、松江と松山ではなかろうか。

松江の不昧や松山の子規らの功績は、単に茶の湯や俳句という「芸事」に大革命をもたらしたことだけでない。二度とないかもしれぬ出会いを大切にする思いを一幅の茶にこめた茶の湯と、同じく二度とはない瞬間を五七五の音節にこめた俳句。表現様式は異なれども、季節の移ろいを胸に今を生きていく道を開いた先人たちの心は、百年、二百年経った後にも地元に人生哲学として根を下ろしている。

 

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 本郷・東大へ

 西日暮里から南西に向かって丘を登り、また下り、さらにまた登っていくと、ようやく本郷の東大が近づいてきた。この一帯を歩くと山の手がなぜ「山」の手と呼ばれるか実感する。江戸幕府はこの「大地のシワ」の隆起部分に藩邸を築かせて「山の手」とし、沈降部分は町人が住む「下町」とした。

やがて本郷の東大のシンボル、赤門が見えてくる。この一帯はかつて加賀百万石前田藩の大名屋敷があり、1827年、十一代将軍家斉の娘が加賀藩に輿入れしたことからこの門が表通りに築かれたという。その地が明治時代に日本の官僚を養成する期間としての東京帝国大学の校地とされると、この門は学術と立身出世のアイコンとして全国の若者たちの目標となった。江戸生まれの漱石も、伊予松山生まれの正岡子規もその一人だった。

 赤門から東大に入って散策すると、後者の裏にうっそうとした森が現れ、緑色を帯びた池が現れる。ここが三四郎池だ。ここは江戸時代には加賀藩邸の育徳園の池で、漱石や子規の時代には「心字池」と呼ばれていた。ここが「三四郎池」となったのも、漱石の「三四郎」で、女性の扱いなど知らぬ九州男児が上京し、うちわを手にした都会的でミステリアスなご令嬢、里見美彌子(みねこ)と出会った場所という設定になっていることからだ。

 

「滅びるね」

 「三四郎」に関するエピソードといえば、主人公の三四郎が熊本から上京する際の汽車の中で、東大の英語教師である広田先生との出会うシーンが興味深い。広田先生は三四郎に言う。

あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない

時は日露戦争後で、日本が「白人国家」に勝利を収めたとして鼻高々の時代である。そこで文明開化で躍進する祖国を誇らしく思う三四郎はむっと来たのかこう弁護した。

しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう

それに対する先生の答えが「滅びるね」だった。そして続けた。熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」(中略)「日本より頭の中のほうが広いでしょう」。さらに結論として「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」と述べた。この言葉が三四郎を覚醒させ、物理的にはもちろん、精神的にも故郷を離れさせたのだ

 

Stray sheep

 青春小説の代表作としても知られる本作だが、登場人物たちは漱石の周りの人物と言われる。つまり三四郎とは漱石の弟子で、独文学者の小宮豊隆、美禰子は平塚らいてう、そして広田先生こそ漱石の分身と言われる。

 平塚らいてう、というと先ほど「青鞜社発祥の地」として紹介した団子坂のあたりで活躍していた。作品の中の彼女を、三四郎はこう描写している。

「この女はすなおな足をまっすぐに前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。」つまり、故郷の九州では見かけなかった「独立した都会の女性」の姿に何か新しいものを感じていたのだ。

そしてその団子坂の菊人形を仲間とともに訪れた際、波のような人ごみの中で美禰子と三四郎の二人が仲間とはぐれてしまった。小道を歩いていると、迷子になってしまったようだ。そこで英語の得意な美禰子が問う。

迷子の英訳を知っていらしって(中略)教えてあげましょうか(中略)迷える子《ストレイ・シープ》――わかって?

 美禰子は英語能力をひけらかしているわけではない。三四郎も、田舎者とはいえ東大生である。知らなかったはずはない。しかし彼はその後何度もこの「ストレイ・シープ」という言葉が頭にこびりついて離れないのだ。ペリー来航から戊辰戦争、西南戦争を経て西洋文明を徹底的に吸収する「文明開化」を実践してきた日本。東大というのはそのための「文明エキス」の吸収機関であり、そこで学ぶ三四郎たちはエキスを吸収・分解するバクテリアのような存在だった。

そして対外的には日清戦争、日露戦争で連勝し、領土を東亜に拡張し、吹けば飛ぶような極東の一小国が気づけば「白人による世界最大の国家」を破っていた。「自称一等国」を誇ってみたところで何か虚しい。国家として「自己実現」したつもりでも、自分をごまかすことはできない。

 

迷える子猫

「迷える子羊」ならぬ「迷える猫」はこうつぶやく。「呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。」さらに、「吾輩は猫である」の前半は読みようによっては、猫=日本人、人間=列強国民と読み替え可能なものも少なくない。

吾輩は人間と同居して彼等を観察すればする程、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ない様になった。

「いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。元来人間というものは、自己の力量に慢じて皆んな増長している。」

元来人間が何ぞというと猫々と、事もなげに軽侮の口調を以て吾輩を評価する癖があるは甚だよくない。

そして日本を含めた列強全体を指してこう戒める。

人間にせよ、動物にせよ、己を知るのは生涯の大事である。己を知る事が出来さえすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。

このように国際社会までをも批評しているかに見える迷い猫こそ、黒船来航以来半世紀あまりがむしゃらに走り続け、ふと立ち止まったら本来の己の姿を見失ってしまった「ストレイ・シープ」そのものの日本の姿だったのだろう。

「三四郎」の終盤で、他の男に嫁いでいくことを決めた美禰子は三四郎に向かってつぶやいた。「われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」(旧約聖書「詩編」)。作品中最も「謎」であり、百家争鳴の見解が出てくるこの言葉だが、私にはここでいう「とが」とは、己の歩むべき道を捨て、列強と歩調を合わせることで「一等国」となったことを指しているように思え、また我が前にある「罪」とは、作品冒頭に出てくる広田先生の「滅びるね」とともに、これから起こりうる帝国主義国としての拡張と崩壊を予言しているように思えてくる。

「己を知る」というのは漱石が生涯を通して追求した「近代的自我の目覚め」につながる。それが作品の中で結実したのは「こころ」だと言われるが、そこに行く前にしばらく東京を離れ、東大で英文学を修めた彼の就職先でもあり、自伝的小説「坊っちゃん」の舞台でもある四国は松山を歩いてみたい。

 

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西日暮里から千駄木へ

 私が西日暮里に住んでいた十数年間、最寄りの中等教育機関は開成学園、最寄りの高等教育機関は東京大学だった。JR西日暮里駅を出て道灌山通りを右に行くか、左に行くかで人生が決まるというジョークがある。左(西)に行けば100mほどで開成中学および高校だ。この東大入学率日本一を誇る学校から道灌山通り、不忍通りから言問(こととい)通りの坂を上ると東京大学まします本郷である。そしてそこから南下すれば永田町や霞ヶ関、丸の内といったエリートコースの道である。

 一方で西日暮里駅を出て右(東)に行けば行くほどアジア系外国人の姿が目立つようになる庶民的な雰囲気が濃厚になってくる。二階建ての一階部分が作業場、二階部分が生活の場、といった職人の町を、さらに東に進めば、山谷という日雇い労働者とバックパッカーの集住地である。私の場合は駅から右に曲がり、600mほどのところで留まっていた格好になる。

 さて、西日暮里駅からゆるい上り坂を進んだ小高い丘のうえにまします開成学園のルーツは、1871年、淡路町にできた共立(きょうりゅう)学校である。そして1878年に初代校長となったのが、原敬暗殺後の首相を務め、その後も蔵相として手腕を振るった高橋是清だった。さらにそこで彼に英語を学んだのが正岡升(のぼる)、つまり若き日の正岡子規であり、子規がその後東大予備門(後の一高、現在の東大教養学部)に入った時、同級生で最も意気投合したのが塩原金之助、後の夏目漱石である。

 私もこのあたりの坂道をしばしば逍遥したものだ。

 

 谷根千―鴎外と漱石と猫と

 都心の地形は山の手の下町から形成されるが、特に山の手は丘と谷が連続する。「坂道は大地のシワのようなもの」と言った人がいる。額にしわができるように、大地も隆起沈降の結果高低差ができ、そこに道を通すわけだから「大地のシワ」を上り下りしようとしているようなものなのだろう。

 開成学園前の歩道橋を渡り、「大地のシワ」の隆起にそって歩くと、マスコミにもよく出てくる商店街の谷中銀座である。谷中および根津、千駄木に残る古い町並みを「谷根千(やねせん)」と呼び、訪日客であふれる観光地にもなっているが、谷中銀座には地域の人々が共同で世話をする「地域猫」が石段に寝そべっているのをよく見る。餌をくれる人間を恐れるでもなく、呑気にあくびしている猫などを見るたびに、漱石の家に迷い込み、インスピレーションを与えた「名前はまだない猫」を思い出さずにはいられない。ちなみにどうやら谷中の地域猫には名前がつけられているようだ。

 坂を下り、谷中銀座を過ぎるとじきに不忍通りである。道沿いに進むと根津神社が現れる。豪華絢爛な権現造の社殿や一面のツツジ、乙女稲荷の小さな赤い鳥居群などで知られるこの神社だが、実は漱石だけでなく明治の文豪として彼と肩を並べる森鴎外もしばしば訪れ、小説の構想を練ったりしたという。境内の坐るにちょうどいい岩があるが、これを「文豪憩いの石」と呼ぶのもこのためである。

猫の家

鴎外といえば、団子坂を登りきったところに森鴎外記念館がある。彼は1892年から、この地に観潮楼という屋敷を建てて住んでいた。なるほど、彼が気晴らしに根津神社まで歩いていたのもよく分かる適度な距離だ。そして観潮楼完成以前は団子坂の駒込学園前交差点で左折した住宅街の中に住んでいたというのでそちらに向かいたい。

鴎外記念館から100mもいかないうちに、右手に「青鞜社発祥の地」という表示が見えてきた。1911年に日本初の女権拡張主義者による文芸誌「青鞜」は、この地で産声を上げたのだ。

坂を登り切り、信号を左折すると、鴎外の旧居の跡地は「猫の家」として小さな猫の銅像があるではないか。実は鴎外の住んでいたこの家は、その後1903年から1906年まで英国留学から帰国した後の漱石が偶然住んでいたところでもあるのだ。漱石はこの事実を知らなかったが、鴎外のほうが先に知ることとなったらしい。「猫の家」というのはもちろん、漱石がその家で「吾輩は猫である」を執筆したからである。

 この時の彼は東大の教授だったが、この家を訪れてきた弟子や仲間、周りの人々との交流を諧謔あふれる文章で書かれている小説である。この革新的な小説は1902年に子規が病没し、その愛弟子の高浜虚子がその跡を継いだ俳句雑誌「ホトトギス」に1905年に掲載されたものである。ある意味、漱石を小説家としてデビューさせたのはかつての親友、子規たちだったともいえよう。

 

「諧謔」の功罪

 猫が人間社会を風刺するこの諧謔小説には、色々な受け取り方がある。ただ忘れてはならないのは、漱石がこれを執筆しはじめたのが1904年の後半、つまり日露戦争中であったということだ。

満洲や日本海などで血みどろの交戦が行われていたころ、千駄木のこの家を舞台に繰り広げられる物語は悠長なることこの上ない。人生の機微や人間の本質を衝く言葉であふれているとはいえ、しょせんは絶対戦争に巻き込まれることのないことを前提に日常生活を過ごす人々と猫の安穏たる物語である。それはあたかも激動の今を必死に生きる私たちなどお構いなしにのんびり過ごす谷中の猫のようなものである。

 なお、漱石には良くも悪くも「諧謔」という文体でもって風刺する傾向があるが、その代表作が「吾輩は猫である」であり「坊っちゃん」である。その中でも「猫」を持ち出したのは偶然迷い込んだという以上に、彼の性格と戦略が見て取れる。近代においてアジアが欧米に戦争で飼ったためしはない。しかし日露戦争という国家存亡の危機にあった世相を「どこ吹く風」とばかりに、総力戦となっていた戦時下の世の中に超然として立ち向かう方法論として「猫」を担ぎ出したのが彼の戦略である。

日露戦争にストレートに反対した著名人は他にもいた。内村鑑三はキリスト者として「非戦論」を唱え、与謝野晶子は女として弟の徴兵を諫める「君死にたまふことなかれ」を歌った。漱石の「猫」はその諧謔版ではなかろうか。「吾輩は虎である」「吾輩は獅子である」では正面切った反戦と分かる。「吾輩は猫である」というこの脱力的表現こそ、のらりくらりと逃げることも可能な漱石一流の諧謔味ではなかったのだろうか。そしてこの諧謔は後に彼の名を貶めることにつながっていく。(続)

 

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度重なる右翼テロ

1929年、山口県出身で政友会総裁の田中義一が亡くなると、犬養毅がその後釜に座ることとなった。翌1930年には高知県出身の濱口雄幸首相がロンドン海軍軍縮条約を締結すると、犬養毅は鳩山一郎とともに濱口の「統帥権干犯」を非難した。その年の暮れ、濱口首相は東京駅で右翼に狙撃され、翌1931年に亡くなった。これをきっかけに首相を中心とする政府の中枢が凶弾に倒れることが相次ぐようになった。

濱口内閣を引き継いだ島根出身の若槻禮次郎内閣は、在任中に満洲事変が勃発し、それを抑えることができぬまま、わずか八か月で総辞職した。その政権内で大蔵大臣を務めていた井上準之助は、三井財閥総帥の団琢磨とともに翌年三月に暗殺された。いわゆる「血盟団事件」である。

以上、歴史の教科書のようで恐縮だが、若槻内閣の後で満洲問題を解決すべく首相となったのが犬養毅だ。その時の彼の演説が録音で残っているが、彼ははっきりとこう言っている。「いかにして日本の産業を統制し、合理的に発達させることができるか…」産業の「合理化」。合理性を愛する諭吉の精神はこのようなところにも生きていた。

それにしても昭和初期においては山口を除いても中四国出身者の政権が続くことには驚かされる。

 

「話せばわかる…」か?

また、アジア主義者である犬養毅は満洲で関東軍が起こした「事変」によって成立した満洲国を国家として認めることは決してなかった。それどころか満洲を中華民国に返還し、日中共同による開発を考えていた。日本に満洲を経営するほどの力量がないことを知っていたのだ。そこで軍部と対立することとなり、1932年5月15日、首相官邸でくつろいでいたときに海軍青年将校たちに押し入られた。

このとき泰然自若として賊を奥の座敷に案内し、葉巻をすすめ、茶をすすめた。まさか本当に殺されるとは思っていなかったのか、それとも死ぬべき時が来たと悟っていたのか分からない。ただ、「話せばわかってもらえる」という信念があったのだろう。しかし賊の「援軍」たちも来て囲まれると、「問答無用!」の一言で撃たれた。ところが賊が逃げてからも「さっきの若いのをつれてこい。話して聞かせてやる。話せばわかる。」と言って息を引き取った。

「話せばわかる。」これはおそらく彼が慶應義塾の三田演説館で、徹底的にスピーチを鍛えたことから出た結論だったろう。しかし現実は「話そうとしたら撃たれた」のだ。さらにこの「話そうとするやつを撃ち殺せ」という流れは、その後十数年間、この国でのスタンダードになってしまった。

犬養毅は神格化されているのか?

木堂記念館を含む戦後の世の中では、犬養毅は満洲国を認めない、日本とアジアの平和を願う平和主義者であるということになっている。私も原則それに賛成である。しかし実に皮肉なことに、軍隊を統率する権利は天皇にあるのだが、「軍縮」の名のもとにそれに政府がとやかく言うことは許さないという「統帥権干犯」の威力を軍部に教えたのは、他でもない、犬養毅と鳩山一郎ではなかったか。現に、鳩山一郎は終戦後その咎(とが)もあり、侵略に加担したとして公職追放されている。また、彼は陸軍に対しては軍備費を惜しまなかった。その資金が関東軍に流れることも推測できたはずだ。

犬養木堂記念館には残念ながらそれに関する展示は見当たらない。やはり「おらが村の木堂先生」が「自業自得」のような展示はできないのだろう。どうやらこの国では、ふるさとの都合が悪い人間は「いなかったこと」にし、誇れる人間は神格化する傾向が強い。しかしやはり政治家に対しては「清濁併せ吞む」という態度で接するほうが現実的かもしれない。

なお、2000年代初期に松江市の中学校では「おらが村」の若槻禮次郎首相にも満洲事変の不拡大に失敗したことについて、責任があるかいなかについてディベートをさせていたことがあった。このようなタブーをおそれず中学生なりにでも真実を究明しようとする態度こそ、若き日の諭吉が目指した教育だったのではなかろうか。

 

「学問のすゝめ」を読み直すべきころ

緒方洪庵のころは「話しても分からない」江戸時代だった。だから彼は「論より証拠」で、種痘によって伝染病が食い止められるということを証明する必要があった。それが福澤諭吉のころになると慶應義塾を開き、「学問のすゝめ」や「三田演説館」で「話して分かってもらえる」世の中を作ろうとした。

それを踏み台にした犬養毅は、大正デモクラシーを通して「話せばわかる」時代の到来を見たが、そのような時代は不断の努力で繋いでいかねばならなかった。それを踏み台にしてさらに良い世の中にしようとする者たちは、軍靴で踏みにじられることとなったのはいうまでもない。

諭吉の人生を歩いた後、彼と正反対の不器用な道を歩いた滔天の人生を歩いた。そして諭吉の師匠、緒方洪庵と、諭吉を師匠とする犬養毅の人生を駆け足で歩いた。諭吉の理想を詰め込んだ「学問のすゝめ」は、明治時代から戦後間もないころまでならそのまま通用したかもしれない。しかし「賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。」というだけで、学問をした人間が上に立てる世の中では、自己責任を求められ、セイフティネットは二の次の「新自由主義」的な世の中では不安定極まりない。

一方で現在博士号をとっても職がない人があふれている。全く持って「宝の持ち腐れ」である。学んだ者にとってよい世の中でもないのだ。ただ、「学ぶ」、「自由」、「独立」という彼のキーワードを自分なりにまとめなおすと、「学ぶことによって自由を知ることができ、それが独立につながる。」となるのが、今時点の私の結論だ。あらゆる意味でもう一度「学問のすゝめ」を見直す段階に来ていることを再認識した。(了)

 

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備中庭瀬 犬養毅のふるさと

岡山市は四つの区に分かれており、その最大の区が北区である。北区は中心部から足守、そして田園地帯にある庭瀬までを占める。この庭瀬の田園地帯を、初秋の頃レンタサイクルで走ったことがある。山陽新幹線の高架のあたりからあぜ道をアスファルトにしたかのような細く曲がりくねった道を行った川入という集落に犬養毅の生家がある。「犬養木堂記念館」という表示に沿って進むと、大きな門が現れた。想像以上の大邸宅である。

彼は武士ではなかったが、この地方最大の庄屋の家柄である。また備中一宮として知られる吉備津神社の随神の家系ということになっているため、同社の駐車場には彼の銅像もたっている。要するにこの地方一の名家の生まれなのだ。

1855年、緒方洪庵が天然痘種痘のため東奔西走し、諭吉が適塾の門をたたいたころ、彼はこの屋敷で生まれた。幼いころから漢籍に親しんできた彼は、能書家でもあった。記念館内には力強い自筆の言葉であふれている。諭吉が伝統的な東洋文化を身につけながらも「封建社会の遺物」としてこれに距離をおこうとしたのに対し、犬養毅は自分のルーツである漢籍と書を大切に保ち続けたのだ。

 

慶應義塾と西南戦争

1876年に上京し、慶應義塾に入って諭吉の薫陶を受け始めた彼は、名家の出でありながら新聞社「郵便報知(現読売新聞)」でアルバイトをする苦学生でもあった。新聞社とはいっても配達員ではない。幼いころからたたき込まれた漢学の知識を縦横無尽に駆使し、書生の身分でありながら知識層をもうならせる名文を書く言論人だったのだ。

翌1877年に西南戦争が勃発すると、今でいう「報道特派員」として九州に赴いた。その理由は学費に事欠き、慶應義塾卒業までの学費を出してもらえるという話がでたからだ。「学問のすゝめ」にある「一身独立して一国独立す」の精神が身に染みていたのかもしれない。

そして自ら命を賭して熊本・田原坂から鹿児島・城山など激戦地を取材してまわり、臨場感あふれる記事で日々の紙面を沸かせた。特に政府に反旗を翻すことで地元を荒廃させた張本人の西郷隆盛を慕う南九州の人々の姿を克明に描くなど、他紙のような新政府側の「ちょうちん記事」とは一線を画す記事を書いた。

「学問のすゝめ」にも「ただいたずらに政府の威光を張り人を畏して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威というものなり。」とあるが、報道の自由を得るためにはあくまで政府からは独立した報道機関であらねばならなかったのだ。

戦地から戻ると、諭吉から「学生の本分は勉強である」と、学問が遅れたことを叱られた。戦場特派員として仕事をしたのだから、卒業までの学費は「郵便報知」から保証されるため、学問に打ち込もうと思った矢先、新聞社が経営不振を理由にそれを反故とした。また成績が首位でなかったことなどから、彼は卒業間近で慶應義塾を中退してしまった。誰よりも残念なのは諭吉だったろう。ただ慶應義塾大学の資料館には、OBの筆頭として彼の名は挙げられている。

 

永田町でも役立ったスピーチ能力

その後の犬養毅はジャーナリストとして活躍するが、1882年に大隈重信が打ち立てた立憲改進党に入党した。そして彼のもとで学んだあと1890年の第一回衆議院議員選挙で岡山県の代議士となった。犬養木堂記念館の敷地には、これを記念した楠の巨木が今なお豊かな葉を生い茂らせている。ちなみに「木堂」というのは「論語」にある「口数は少なくとも真のしっかりした人物には思いやりの心があるだろう」という意味の「剛毅木訥近仁(ごうきぼくとつはじんにちかし)」から来ている。しかし彼は「朴訥」どころか議員としてスピーチをし続けた。もちろんその基礎は、慶應義塾の「三田演説館」で身に着けたものだろう。

諭吉は「学問のすゝめ」のなかでスピーチに至るまでの五段階を以下のようにしている。

「①観察 ②推理 ③読書 ④議論 ⑤演説」つまり、「よく見て、なぜそうなるのか考え、それを裏付ける資料を読み込み、議論によって反論に対する準備をし、そして明るくわかりやすく説くべし」というのだ。犬養毅のスピーチはまさにこれを踏襲していた。そして一方的な意見を何より嫌った。

「学問のすゝめ」には「およそ世に学問といひ、政治といふも、みな人間交際のためにするものにて、人間の交際あらざれば不用のものたるべし」、つまり人と人との交流こそが学問であり、政治なのだ。

 

アジア主義者としての犬養毅

薩長藩閥に強く反対した彼は、盟友尾崎行雄とともに憲法を守る議院内閣制を堅持する「護憲の神」と呼ばれた。一方で金玉均を支援して朝鮮の近代化に助力したり、辛亥革命の際には孫文を最後まで支援し続けたりするアジア主義者でもあった。亡命してきた孫文を、熊本の宮崎滔天のもとにかくまってもらうよう指示を出したのも、孫文の革命に資金を回したのも犬養毅だった。幼いころからの漢文と書で培ってきたアジアへの共感を基礎に置き、中国がアジア初の共和制国家に移行する際の「縁の下の力持ち」でありつづけたのは、恩師諭吉がなしえなかったことだ。

1925年、普通選挙法が成立すると、護憲派加藤高明内閣の逓信大臣だけでなく、議員も辞した。しかし岡山県の有権者たちは本人の許諾無しで彼を担ぎ出し、立候補させて選ばれた。憲政史上、これほどの「珍事件」もまずなかろう。彼はしぶしぶ引き受けたものの、長野県富士見町の白林荘という別荘に隠棲してしまった。付近には「帰去来荘」という別荘もある。気分は官吏から離れた陶淵明だったのだろう。彼には「文人」という言葉がよく似合う。ちなみにこのころの彼のスタイルは、着物の裾をはしょって杖をつく姿は、晩年の諭吉そっくりである。(続)

 

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