皆さんこんにちは!
一隅です。パート①と②の間がだいぶなごーなってもうたんで(長くなってしまったので)、きばって(頑張って)書きましたんで、どうぞお楽しみ下さいませ。
御所の一般公開はこっからが(ここからが)本番!
それでは前置き無しで行きたいと思います~!
まずここまでのおさらいと、御所の全体像を捉えて頂こうと思います。
それぞれ宮内庁ホームページ、ウィキペディアからお借りいたしました。
パート①、②で下の図で言う3番の新車寄せまできました。
そして今からご紹介するのが4番の回廊から中です。
回廊は朱塗りのもので下の様にとても立派な造りです。
回廊外から正殿である紫宸殿を見ると直に見るより神秘的ですね。
この時気付いたのですが、御所の空は広く見上げても周りにビルなどが無くて、本当にここだけ時の流れが違うようなそんな気になります。
京都でも、東京でもなかなか見られない大空と御所のコラボレーション、本当に時を超えた感動でした。
では紫宸殿に行く前に、ちょっと後ろを振り返って御所の正門、建礼門をご紹介いたします。
建礼門(けんれいもん)… うん?どっかで聞いたことあるぞ!
と、思った方はいらっしゃるでしょう。
そうです。平清盛の娘、中宮(ちゅうぐう-皇后の住まいの名、転じて皇后の意)徳子の院号です。
徳子は高倉天皇に嫁ぎ、後の安徳天皇を身籠り、国母(こくぼ-天皇の母)に。平家はその地位を磐石にした。しかしご存知の通り、木曾義仲に都を追われ、その義仲を倒した義経をはじめ源家の軍に建礼門院徳子ら平家は福原、屋島、そして壇ノ浦まで追い込まれ子の安徳天皇と母の二位尼 (時子-清盛の正妻)と共に入水したが死に切れず、助かり京へ護送されるが赦されて大原の寂光院(じゃっこういん)で平家一族の菩提を弔い、その生涯を終えたのです。
歴史オタクなので変な所に反応しながら回っていました笑
では、お待ちかねの
紫宸殿(ししんでん-正殿)に行きます。
紫宸殿とは正殿、つまり儀式や政の晴れの舞台です。また1000年の歴史を今日に伝え、京都が京都たる理由、もここにあるのです。
え、それは言いすぎちゃうん?(言い過ぎでは?) いえ、ほんまに(本当に)そうなんです。
何を隠そうこの紫宸殿には高御座(たかみくら-玉座)が置かれています。
つまり、歴代天皇はこの高御座で御即位されるのが定めとされており、昭和天皇まではこの紫宸殿で御即位されていました。今上陛下は警備上の問題から東京にこの高御座が運ばれて御即位となられたそうですが、御即位以降もこの京都の御所に戻され今も、この紫宸殿にあるのです。
天皇陛下の御在所を示す、高御座。憲法上、天皇の御在所が都であると書かれていること。また1200年以上の歴史がある事などくぉ考えるとやはり、京都はみやこの中のみやこ、京(みやこ)の都だと頷けますね。
これが私の言う京都が京都たるゆえんなのです。
またまだどの天皇も政府も東京に遷都したとは明言してへん(してない)のと、明確に東京が首都とする法律が無いのと、明治天皇が東京へ御幸された"だけ"という"事実" を踏まえると、日本の首都気取ってる東京さん、はよ天皇はん返しよし!(はやく、天皇陛下返して)まだ1000年早いわ!笑
紫宸殿の前は南庭(なんてい)と言い、観覧スペース以外は玉砂利で綺麗に覆われていました。古くは沢山の臣下に見守られ儀式が執り行われたのでしょう。
また紫宸殿の前に植えてある2本の木は天皇からみて左が桜の木、右が橘の木です。「左近の桜、右近の橘」と言われこの2本の木のそれぞれに左近衛、右近衛が控えていた為にこう呼ばれています。
因みに紫宸殿の正面の階段は18段あり、中国などで神聖視されている9の倍数ということです。
あと真ん中くらいから黒っぽくなっているのは雨に晒されているからです。
私が思うに、この荘厳な紫宸殿は中国の様式を取り入れつつも、我が国独自の天皇に対する考え方が反映されているように感じます。中国の皇帝のように支配者としての君主では無く、天孫の末裔であり国の為に政(まつりごと)を行い、国の為に祈りを捧げ続ける天皇。石造りで城塞の様な中国やヨーロッパの宮殿とまた違った印象を受けました。
まだまだ、色々書き無いのですが、パート③はここまで。
ほな、パート④でまたお会いしましょう!
次も宜しゅうおたのもーします!
見てくださった貴方に感謝です。














