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前回から、謎多き神「邇芸速日命(ニギハヤヒ)」について、諸説の紹介を始めました。
記紀には、わずかな記述しかないニギハヤヒですが、それとうって変わって、「先代旧事本紀」には、詳細な事績が記されているんです。
前回の記事で紹介したように、ニギハヤヒこそが初代天皇であるのに、なぜ神武天皇が初代天皇とされているのか?その謎は古代史上、もっとも深い闇だと私は考えているのですが、そのことを具体的に記述するのが「先代旧事本紀」になります。
物部氏の「私記」とされ、ニギハヤヒを祖とする物部氏を軸に記す「もう一つの記紀」です。
ただ、記紀との整合性に問題があるとされて、偽書として顧みられない時期を長く過ごしましたが、ようやく近年になって見直す動きがでてきた書物になります。
まずは、先代旧事本紀には、ニギハヤヒの事績がどのような形で記されているのか?
それをご紹介したいと思います。
1 天照大神は、瑞穂国を治めるために「吾御子」のオシホミミを降臨させようとしたところ、オシホミミにニギハヤヒという子が誕生したので、代わりにその子を降臨させたいとの願いを許しました。
2 天照大神は、降臨するニギハヤヒに「天壐瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)」を授けました。天つ御壐とは、皇位の証です。その証とは次のような十種の神宝でした。
① 瀛都鏡(おきつかがみ)
② 邊都鏡(へつかがみ)
③ 八握剣(やつかのつるぎ)
④ 生玉(いくたま)
⑤ 死反玉(かまるかへしのたま)
⑥ 足玉(たるたま)
⑦ 道反玉(ちかへしのたま)
⑧ 蛇比礼(へみのひれ)
⑨ 蜂比礼(はちのひれ)
⑩ 品物比礼(くさぐさのもののひれ)
3 ニギハヤヒは、数多くの随神・随臣を伴って天降りました。
彼らはヤマト政権の担い手となり、その後の主な氏族の祖となります。
32人の将軍、5人の部の長、5人の造の長、25人の軍部の長、千兆、舵取等(これらはすべて名が記されています)
4 ニギハヤヒ一行は「天磐船(あまのいわふね)」に乗って天降りました。
5 初めに河内国河内の哮峯(いかるがのみね)に天降り、それから大和国国見の白庭山に遷御しました。
6 ニギハヤヒは天磐船に乗って、大虚空を飛翔して国を見定めました。これに由来して「虚空見つ日本の国(そらみつやまとのくに)」と言います。
7 ニギハヤヒはナガスネヒコの妹・炊屋姫(かしきやひめ)を妃としました。しかし妃の出産直前に亡くなりました。
8 高皇産霊尊(タカミムスヒ)は速飄(はやかぜ)を使者として送り、ニギハヤヒの屍骸を天上に迎えて、七日七夜哀しみました。
9 ニギハヤヒの死後に生まれたのは宇摩志麻治命(ウマシマヂ:記は宇摩志麻遅命、紀は可美真手命、旧も可美真手命)です。
ウマシマヂは、母方の叔父である長髄彦(ナガスネヒコ)を殺して、天壐瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)」を神武に献上し帰服しました。
先代旧事本紀に葉、上記9つのことが記されているのですが、
日本書紀には、4,5,6のみ
古事記には、7,9の一部のみ
が記されているだけです。
また、先代旧事本紀では、八咫鏡を自分の御魂として祀れと命じたのは天照大神ではなく、高皇産霊尊となっています。
次に、「天神の証し」とされる「御壐(みしるし)」ですが
日本書紀では「天つ表(しるし)」
古事記では「天つ瑞(しるし)」
先代旧事本紀では「天つ壐(しるし)」「天つ表」
と記されています。
この天つ御壐は、長髄彦軍と神武軍が対峙した際に互いに見せ合った宝であり、国の統治権の証として天照大神から与えられたものとされています。
そして、この天つ御壐を持つものこそが天皇となるとされているんです。
あるいは、天皇となるものは、この天つ御壐を保有しなければならないとされているわけなんです。
つまり「天皇たることの証左」なんです。
現在では、天皇の印は「三種の神器」とされています。
しかし、この三種の神器は、長髄彦軍と神武軍が互いに見せ合った天つ御壐には登場しません。
互いに見せ合ったものは?
日本書紀と先代旧事本紀では、「天羽羽矢(あめのははや)」と「歩靭(かちゆき)」んのことになり、
古事記では、とくに記していないのですが、おそらく日本書紀と先代旧事本紀と同じであろうと言われています。
長髄彦は、ニギハヤヒから預かっていた天つ御壐を神武に見せます。
神武は「事不虚(まこと)なり」と言って驚きました。
そして、神武も同じものを見せました。
同じものが出現したことで長髄彦は畏れかしこまるのですが、このことで両者がともに天神の子であることが証明されました。
天羽羽矢は、元々は天照大神から天稚彦(あめのわかひこ)に与えられたものです
そして、天稚彦とニギハヤヒとには、興味深い共通点があると指摘されているので紹介しておきますね。
1 高天原から視察約として速飄(はやかぜ)が派遣されること
2 速飄がもたらしたものは、ともに「死」の報告であること
3 弔い期間が、天稚彦は八日八夜、ニギハヤヒは七日七夜であること
の3つです。
こういった弔いの記録は、大変珍しいものらしいです。
さらに、ともに期間まで記されているのは、双方に強いつながりを示唆していると考えられると言われているのです。
ここで登場する速飄(はやかぜ)というのは、疾風(はやかぜ)・旋風(つむじかぜ)などを意味する神を表し、共通の使者となっています。
天稚彦とニギハヤヒは異名同体説もあり、少なくとも同じ血脈にあると考える研究者は多いです。
天稚彦は、記紀では、最初に降臨した者であることがはっきりと記されています。
統治者にまではなっていませんが、先遣体調、先乗りのリーダーといった役割があるのではないかと考えられているのです。
この記紀での話を素直に受け取ると、ニギハヤヒが持っていた「天羽羽矢」は、元々は天照大神から天稚彦に与えられたものなので、それをニギハヤヒが受け継いでいるということになります。
けれど、二人の関係等や天羽羽矢がどのように受け継がれたのかについては、記紀のどちらにも何も記されていないんです。
では一方、神武が持っていた天羽羽矢は、どのような経緯で神武の手元に渡ったのでしょうか?
記紀では、ニニギではニニギが降臨する際に、同様に天照大神から与えられたものだと記されています。
そして、その後神武が継承しています。
なので、中つ国に赴く者には、等しく与えられる御壐であったと考えられています。
ただ、現在まで続く皇位の保証から三種の神器については、この限りではないとされています。
このことについては、また後に説明したいと思います。
ニギハヤヒと神武がお互いに見せ合った「天羽羽矢」と「歩靭」は、戦の場に備えるお守り的な位置づけだったのではないかと考えられており、そのため、この2つを見せ合いました。
ニギハヤヒが保有する数々の御壐は「十種の神宝(とくさのかんだから)」というものですが、当然、ニギハヤヒと共にあり、天羽羽矢と歩靭のみを戦いに赴く長髄彦にあずけたものだと言われているのです。
そして、十種の神宝の中でも「三種の神器」については、本陣深くに守られており、最前線に持参しておらず、戦いのお守りである「天羽羽矢」と「歩靭」のみを持参したのだと考えられるのです。
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