第2の故郷、深セン(その8.元軍に追い詰められ、入水自殺した宋のラストエンペラーの宋少帝陵) | スマイル中国語教室のブログ

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こんばんは!スマイル中国語教室のマーシーです。

今日は私の思い出の場所、深センで数少ない歴史スポット、宋少帝陵について紹介いたします。



宋少帝陵は深センの赤湾にあり、宋の第九代の皇帝でラストエンペラーとなった趙 昺(享年8歳)が元軍に追い詰められ、家来に背負われて入水自殺した場所です。ここには当時の入水自殺を再現した像と墓碑があります。



人気が少なく、目立たない場所にありますが、中国の歴史に残る場所。8歳で皇帝となり、入水自殺まで追い込まれた趙 昺。悲しくて短い人生を思わずにはいられませんね。

(補足)
1235年、南宋軍は北上して金よりかつての宋朝の都であった洛陽と開封を奪還したが、モンゴルの元軍との和約違反であったため、元軍と戦闘状態に入る(モンゴル・南宋戦争)。暫くは長江流域を挟み一進一退を繰り返すが、元軍のクビライが襄陽を陥落させる頃には南宋は内部崩壊により抵抗する力は無く、1276年、元軍のバヤンに臨安を占領されて事実上、宋は滅亡した。南走して徹底抗戦を続けた一部の皇族・官僚・軍人らも1279年に広州湾の崖山で元軍に撃滅され、宋は完全に滅びた(崖山の戦い)

その時、入水自殺したのが宋の第九代の皇帝でラストエンペラーとなった8歳の趙 昺(1272〜1279年)であった。1278年に即位し,元に敗北後の1279年に退位となり、一年ではあるが、宋朝最期の皇帝となった。深センの赤湾にて元軍の兵隊に追い詰められ、丞相の陸 秀夫が幼い趙 昺を背負って海に身を投げた。

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