最近原因不明の治療方法不明の病気になった。
正直この病気の影響で日常生活に影響が出るかといえばでる。
そして健康に気をつけた生活をしなくてはならないという問題もでてきた。
つまり無理した生活をすることがしにくい状況だ。
もっとも即障害者として生活するほどではないが夢を追う上では結構問題である。
この状況になって最初の私は絶望した。
世界一不幸な状況になった気もした。
しかし、色々時間が経つにつれてそう思わない自分がでてきた。
病気のことを知りたくて色々な人のブログを見たりいろんな人の事を知ることができた。
そうしているうちに今日の24時間テレビもあった。
自分より辛い人も多くいるし自分より重度な障害を持つ人もいる。
その人たちとの比較はしないが、自分は30代半ばまで健康を絵に書いたような人間だった。
その健康であった30年以上の月日と体に感謝し始めました。
そう感じたら次第に今までの起こってきた人生のイベントや経験も思い出した。
たしかに人より不幸な出来事もあった。
辛いことがあり生きていても仕方ないって思うことも多くあった。
絶望的なことがあったときは人生やり直したいと思うこともあった。
でもそれなりだったが、幸せだと言えるときも多くあったし自分が好きだと言えるときも多くあった。
今後も今までどおり健康でいたいという気持ちは欲張りだとも言えるし、当然だとも言えるだろうけど今は欲張りだったかもと思うようになった。
さて題名の生き残りレースというのは言い方は悪いが人生ってそうなんだろうなと思った。
まず生まれるときは何億という精子の中から選ばれて自分が卵子に入っていく。
その時点でレースに勝って生き残ったものだと思う。
よく子宝を授かるというが本当にすごいものだと思う。
私が小学校の頃は何億の精子が競争して卵子に入っていく様子をアニメで性教育のビデオで見た記憶がある。
負けた精子が「お兄ちゃん頑張って!」とか言ってたのを私は一人笑わずに真剣に見ていました。
生まれてからもそうかな出産も生きるか死ぬかの瀬戸際で頑張って出てくるし、日本では出産時の死亡率が低いけど私の生まれた当時の諸外国は死亡率が高かった記憶がある。
24時間テレビを見ていたが、子供の頃に発症する病気もいっぱいある。
私の友達の中で小学校に上がれなかった子は何人いたか覚えていないが知り合い程度になると2~3人はいた。
子供ながらに可哀想くらいにしか思っていなかったが、その子達がなくなったのは今後の楽しいことや辛いことを経験しないままに亡くなったつまりレースにほとんど参加していないというのだなと思った。
小学校時代には一緒に空手をやっていた友達がいきなり亡くなり聴覚障害者の同級生と遊ぶ機会もあったりと障害と天に召された人を身近に見てきた。
それでもまだ人が死ぬということは自分には遠い存在だと思っていた。
しかし中学に入ると状況は一変した。
私の家の単車を盗んでそのまま事故起こして死んだ先輩や友達の兄など単車の事故で亡くなった人が一気に増えた。
そして大好きだった祖父もその頃に肺炎で亡くなった。
死がぐっと身近なものになった。
金八見てたら「死ねなんて言葉簡単に使うなよぉ!」と言っていたのも感動したし本当にそう思った。
私はそれからほとんど「死ね」という言葉は使ってない。
その後高校では死が身近ではなかったが、遠く離れた学校でいじめで自殺やいろんなニュースを見ると同世代の人間が多く死んでいくのがよくわかった。
大学に入ってからは彼女が数人自殺未遂した。
実際に私の知らないところで自殺が完遂している人もいたかもしれない。
その頃から自分の身近な人が自ら命を絶つ行動をとることも知るようになった。
彼女の自殺未遂は結構焦ったが、あまりにワガママな事を注意したりしていた末の出来事。
別れ話の最中の出来事など色々あって命の軽さを感じた。
でも今思うとそれだけ命懸けで恋愛していた人からしたら別れ=死なのだろう。
命が軽いのか恋愛が重いのか知らないが、当時の私には軽いものとしか感じなかった。
なぜかっていえば当然私自身にそれほど魅力があったと思えないこと。
自分でそう思っていたから命をかけて恋愛されてもピンとこなかった。
まぁ今でも命をかけるほど私に魅力があるとは思えないのだが、魅力以外に恋愛には色々魔力があるのだと思う。
そうこうしているうちに社会人になり職場の人や友達の親や自分の祖父や色々な人がなくなっていくのを見てきた。
当然メジャーなところだと芸能人の死は結構見るようになった。
そうなるともはや生き残りレースのごとく人生を駆け抜けていくのが感じた。
誰かを殺して勝ち上がるというよりも何とか生き延びて明日という未来を見ること感じることが生きていくレースだ。
私は生き残ったために9.11も知ったし3.11も知った。
生き残っていない私の祖父は両方しらない。
9.11や3.11を知りたいから生きていたわけではないがひとつの未来だ。
逆にオリンピック卓球女子銀メダルは生き残っていたから味わえた感動だ。
そのように新たな感動を知りたければ生きるしかない。
そして新たな悲劇を知りたくなければ生きていたらいけない。
私は今生きていくべきかレースから脱落すべきか考えたりすることがある。
とりあえずレースには残っていてもいいかなくらいしか思わない。
というのは今まで本当に十分に楽しんだからということと、新たな悲劇を知りたくない気持ちがあるからだ。
でも新たな感動を味わいたいという気持ちが少し足りないからそう思うのだが、世間の人も同じ気持ちなのだろうか?
このレースに私はいつまで走り続けて行かなくてはならないのかわからない。
でもレース半ばで敗れたもののことを考えたら、簡単に諦めてはいけないものだとも思う。
そしてレースもただ生き残ればいいというものではないと思う。
それは我々のご先祖様が示したように神風特攻隊のように純粋に自分の信念のために命という炎を燃やし尽くすことは神々しいものだと思う。
人はいつまでも人だがいかに神に近づくかが課題だと思う。
よって神がかった行動とったり神がかったという言葉があるが理想的な目標だろう。
ちと言葉が詰まってきたのでこの辺で終えるがそう思う今日このごろです。
