童子はいつものように8時過ぎにスーパーに行き、値下げされた弁当とキャットフードを買ってアパートに向かった。
SEという仕事は自分にあっていると思う。集中してシステムを組んでいる時は、40で独身という事も忘れられるし、同業者の女の中には童子と似たような境遇の人もいて、その人達と仕事をしていると何か自分達はこのまま男に媚びないで生きていくとゆう同盟のような友情のような奇妙な繋がりが芽生える。もちろんそれを確認しあってるわけではないが。
陽介から今日だけで着信が二回あった。返信はする気はない。
終わった事だ。
一ヶ月前陽介にプロポーズをしたとき童子は結婚とそのあと産まれるであろう子供との生活に将来の理想を託していた。
しかしそれはあっけなく崩れた。
童子のプロポーズを陽介はその時は断った。それは単純にすれ違いだった。
陽介は、子供を直ぐに産む気はない。けど童子と結婚はしたい。
単純にそのことだけを伝えた。
しかし童子は陽介の言う、子供はまだ産めないという返答が童子のプロポーズに対する答えと極端に捉えた。童子はその時すでに40になろうかという時期だった。子供はどうしても欲しかった。今思えばかなり身勝手なプロポーズだったのだろう。実際、童子と陽介が交際してた期間は一年とちょっと。そこで子供の話となると陽介が面食らうのも正常な反応だったのだが童子は陽介に裏切られたような失望感を感じ、子供はまだ産みたくないという陽介の言葉を聞いた時に、別れようとその場で陽介に告げた。
陽介にしてみれば完全に誤解だった。陽介は時期を見て子供を産もうという意味だったのだが。その日以来、陽介の電話、メールは童子は全て無視している。
童子はそれほどまでに自分の子供が欲しかった。相手が陽介でなくても・・
その日以来童子は吹っ切れた。
色んな事を考えた気がする。結婚の理由、自分の理想・・
最終的には何かそれらが下らない事のような自分のエゴのようにも感じられた。
童子は生粋の猫好きだった。子供の頃からだ。童子が幼少時代を過ごした北海道の実家では母親の猫好きが生じ常に二匹以上の猫がいたし、猫の媚びない態度は童子の女としての理想象に無意識に影響を与えていたのかもしれない。
童子の住んでいるアパートはペットは厳禁だった。それはよく言われている俗説の、独身女がペットを飼ったら一生独身という言葉を信じていないわけではなかったからだ。しかし今は違う。振り切れた。陽介の事があってからしばらくの間童子は鬱気味だった。心療内科で勧められた薬を毎日飲んでいた。
ある日空っぽの心で仕事から帰ってくると玄関の前にキジトラの猫が座っていた。童子の住んでいる辺りは野良猫が多かった。食べ物をあげてはいけないと思ってはいたが、童子の寂しい心に猫の愛らしい姿は効き過ぎた。自分のために買っておいた惣菜をそのままあげた。キジトラの猫はそれを全部平らげた。
そうなるともう一匹ではすまなくなった。どこからともなく仲間がわんさかやってきて童子の仕事帰りを待つようになっていた。常に四匹はいただろう。童子は自分のオカズを上げるのではなく大きい袋に入ったキャットフードを買ってきて、たまには牛乳なんかをかけて与えた。すると一ヶ月も立たないうちに子猫が産まれた。
童子は子猫が自分の与えた牛乳を美味しそうに飲むのを見ながら猫の雌の幸せは子供を産み育てる事でそれは人間にももちろんあてはまる。ではその幸せを逃したら一体何のために生きるのだろう。そう思うと哀しみを通り越して病んでくる。感情が病気に変わっていくのだ。そんな日々が続いた。
直ぐに苦情が入った。当然だろう。大家が童子の出勤前の朝7時にやってきて、事情を告げた。
話しは上の空で、大家に告げ口をしたのは同じアパートに住む谷口だ、間違いない。童子はそう確信した。
谷口というのは五十代なかばの独身女だ。生命保険の外交で童子がアパートに引っ越してきてすぐに大きな黒い鞄を持ってやってきた。内容は既婚者向けの保険商品の勧誘でそのパンフレットには夫婦子供三人で仲良く食事をしている姿が写っていた。
このCM見たことあるでしょう?
子供や旦那様やお子様がもし病気や怪我になれば加入して次の日でも保険がおりる事だってあるのよ?
童子はその家族円満の写真をボーっと眺めていた。ふと我に帰り
子供どころかまだ結婚もしてない。そう告げても谷口は引き下がらなかった。童子は面倒臭くなり、今忙しいんでお引き取り下さいとやや冷たく告げると、谷口は聞こえるか聞こえないかの小さい舌打ちをして話しを放り投げてとっとと帰ってしまった。
それ以来童子が谷口を見かけ挨拶をしても谷口は完全に無視をした。大家に告げ口をしたのはこの女だ、間違いない。
童子は猫に餌を与えたのは事実だが、猫が増えたのは自分とは関係ない。そしてもう猫に餌付けをするのはやめます、そう大家に伝えるとあっさり大家は帰って行った。玄関をしめ大家が離れていくのを確認すると童子は谷口の部屋に向かった。
ドアにチャイムはついていたがそれは鳴らさずに殴りつけるようにドアを叩いた。スウェットですっぴんの谷口が眉間に皺を寄せ直ぐにドアチェーンを外さずに顔を覗かせた。その姿は童子には醜悪そのものに見えた。
あんた何なの?
はっ?
あんた何なのよ!!文句があるなら私に直接言えばいいじゃない!保険に入らなかった事がそんなに嫌だったの!!
童子が大声を出すとアパートの向かいの一戸建てに住む中年の女が窓からこちらをうかがった。
谷口は何も言わずドアを閉めた。
ふざけんじゃないわよこのババア!あんたみたいな人間は直ぐに死ぬべきなのよ!!
そう怒鳴って少し間を置くと童子は自分の部屋に戻って行った。童子は自分でもこの言動にびっくりした。生まれてこの方友達や親、陽介にさえこんな事は言った事はなかった。
顔を洗おうと洗面台に行き自分の顔を鏡で見て心臓が跳ね上がった。
いつもと顔が違う、何か黒いモヤのようなものが顔にかかっている。くま?いや、違う。
しばらく凝視していると何か不安になってきたので、直ぐに心療内科でもらった抗鬱剤を飲んだ。
そんな状態でも仕事にだけは行った。職場だけが唯一変わらない現実だったからだ。しかし谷口の件以来なにか職場仲間の態度が違う気がする。職場の人間が吐くため息、休憩中に交わしている会話、パソコンを睨んでいる眉間に皺の寄った同僚の顔、それら全てが童子に向けられている。童子はそう思い込んでとうとう体調不全という理由で長期休暇をとった。
スーパーと家の往復という生活がしばらく続いた。
その日童子がスーパーから帰ってくると玄関の前で子猫が二匹地面に顔をくっつけて何か食べていた。それをみて顔の力が抜けていくのがわかった。
何て可愛らしいのだろう
頭を撫でてやろうとそっと近づくと子猫達が振り向いた。
子猫達が食べていたのはおそらく兄弟であろう他の子猫の頭を二匹で競争し合うように食べていた。
何か夢から覚めていくのがわかった。
童子は思い切り子猫達の頭をかかとで踏み潰した。耳からは脳みそのようなものがでていた。その二匹を素手で抱えると谷口の部屋の玄関に叩きつけ、自分の部屋に戻った。
冬に買った灯油がまだ残っていた。童子はそれを頭からかぶった。マッチをつけようとした時携帯が鳴った。着信の相手は陽介だった。童子は携帯の通話ボタンを押した。
もしもし、童子?まだ怒ってるのか?おれは誤解を解こうとずっと電話をしてたんだ、おれが言いたかったのは・・
もういいのよ。
えっ?
私が間違ってた。私、騙されていたのかもしれない。何か得体の知れないものに幻想をみさせられていたのかも・・
そう言ってマッチに火をつけると童子の身体が燃え出した。
もしもし?童子?どうしたんだ?
ああっ!痛い!熱い!
ははっ・・間違ってたいたのは私なんだから・・
おいっ!どうしたんだ!?何か変な音がするぞっ!
火だるまの童子が部屋中をのたうちまわった。過去の記憶が全て燃えていく。親の笑顔、小学校の思いで、陽介と過ごした日々、全てがまるで紙に描かれたものだったかのように燃えていった。
意識がなくなる寸前、真っ黒な視界に一つだけ光を放つものがあった。童子はそれにしがみついた。
それは、谷口が童子の部屋に勧誘にきた時にもってきたあのパンフレット、家族円満の写真が載ったあのパンフレットだった。
そしてそれも燃えた。しばらく闇が続いた。すると闇の中から巨大な何かが浮かび上がった。童子はそこで悟った。あれこそが依頼者・・あのパンフレットの・・
END