きゃっ・・なにこれ?また?
掃除をしていた幸恵が一瞬飛び上がった。カマキリの死骸がテーブルの下にあったからだ。
幸恵は一つため息をつくとティッシュで死骸をくるんでトイレに流した。
掃除を中断してコーヒーを入れリビングの椅子に腰をかけテーブルの上にある離婚届けを眺めた。
哀しくはなかった。もともと合わなかったのだろう。拓也と知り合った時は幸恵は35だった。それまでも何人の男と付き合ったが全て上手くいかなかった。別れを切り出すのはいつも幸恵だった。今回にしても。
sexは全く好きじゃなかったし、どうしようもなく寂しくなり男に甘えたいなどという衝動も幸恵にはなかった。理由はわからない。
直そうと努力した事もあったがバカらしくなり直ぐ止めた。
しかし子供は好きだった。35になった時は焦った。子供は絶対欲しいと思っていたからだ。そんな時、会社の同僚から拓也を紹介され、二人で食事を重ねるうちに出会って三ヶ月後に籍を入れた。
その三ヶ月後に妊娠が発覚した。
玄関の開く音がしたので離婚届けを食器棚の引き出しに隠した。
ただいまー
カノン、テーブルの下にカマキリが死んでたわよ。どうしてこんな事するの?可哀想でしょ?
カノンじゃないよ
じゃあ誰がやったの?
ココだよ
またかと思った。ココというのはカノンのお気に入りのパンダのぬいぐるみだ。
六歳のカノンには離婚という言葉は言ってない。これからはパパとは別々に暮らすとだけ伝えた。
毎日のように拓也と口論していた頃、元々大人しいカノンはほとんど家で喋らなくなっていた。
それを見兼ねて上野動物園に連れてった時、カノンはパンダを見て大はしゃぎをし、幸恵にパンダのぬいぐるみが欲しいとしがみつきながらおねだりした。
幸恵はホッとした。
仔犬ほどの大きさのやつを買って上げた。カノンはそれをココと呼び始めた。
カノンはココとよくお喋りをする遊びなどをしていた。
幸恵はそれを見てカノンに兄妹がいない事を可哀想に思ったし、産んであげられなかった自分を攻めたりした。
カノンがココと遊んでいる姿をみるのは微笑ましい反面、不安もあった。カノンはよく自分の悪戯をココのせいにした。それだけならまだ可愛いが困った事が起こるようになった。
一年ほど前だろうか、幸恵と拓也は激しい口論をした。その最中、自分の部屋で寝ていたカノンがやってきて
ママ、喉が渇いた
と言って倒れた。熱が39度あった。医者に連れてったが風邪とだけ言われた。
熱は直ぐさがり、カノンはいつも通り幼稚園に通い始めた。
カノンが幼稚園にいる間に幸恵はカノンのおもちゃを片づけていた。その時、死んだカナブンがおもちゃに紛れていた。
どっかから紛れこんでこの部屋で息絶えたかと思ったがよく見ると六本の足が切断されていた。微妙ではあるがまだ動いていた。
幸恵は無理矢理忘れようとした。
その翌日、掃除を終え何か飲み物を飲もうと冷蔵庫を開けたとき、バターの蓋の上に何か乗っているのに気がついた。
首だけが90度にねじられたトカゲの死骸だった。幸恵はカノンに問い詰める事を決めた。
カノンの返事はこうだった
カノンじゃない。ココがやったんだよ
幸恵は心底不安になった。やはり親の離婚が子供の精神に与えるダメージは大人が考える以上に深刻なのでは?
しかし幼稚園でのカノンの振る舞いや、家での態度は悪くない。
幼稚園で飼っているウサギの世話を一番積極的にやってくれるのはカノンちゃんなんですよ、と先生は言っていた。
深刻に考え過ぎずにゆっくりとカノンの心の傷を癒してあげていった方がいい。幸恵はそうゆう結論に至った。
幸恵はカノンを連れて実家に帰りしばらくそこで暮らす事に決めた。拓也も納得した。
ジジとババと一緒に住むんだよと言うと、カノンも喜んだ。実家で飼っている柴犬のマーちゃんが大好きなのだ。引っ越しは明日だ。
時計は10時をちょっと過ぎた頃だ。カノンを寝かしつけ幸恵は最後の細々したものをダンボールに詰めていた。肩が凝ったので軽く背伸びをした。
この家も最後か・・そう思うと拓也との生活も悪くはなかったとちょっとだけ思えてきた。
互いに分かり合えた時間があった。本当に心の底から一緒に笑った時間もあった。
カノンが産まれた時は拓也は泣きながら幸恵を抱きしめた・・
もう終わった事だ。
最後の仕事に取り掛かるか、そう思ってダンボールに視線を移そうとした時ふとリビングの窓に目がいった。
あれ?ここの窓、こんなにちいさかったっけ?
突然時間が止まったように感じられた。
なんの変わりもないいつもの窓。
しかしなにかがおかしい。小さいのだ。
その時、このマンションにまだ住み続ける拓也のためにそのままにしてあるカーペットが波打つように歪んで見えた。歪むというより何かがカーペットの下を通ったという感じだ。
強烈な不安に包まれた。と同時にこの光景がどこか懐かしいといった不思議な感覚が幸恵を、支配した。
幸恵は立ち上がりカーペットをめくろうとした。身体は何故か自分とは別の生き物のように感じた。
カーペットをめくった。
それが何か認識するのにしばらく時間がかかった。
そこにはおびただしい数のゴキブリの死骸が並べてあった。
おびただしいなんてもんじゃない。完全に現実離れしていた。しかもすべてのゴキブリの足がなかった。
カノン・・
積み上げてあるダンボールに激しく身体をぶつけながらカノンの部屋に走り電気をつけ、カノン!と叫びながら布団をもぎ取った。
幸恵の視界から色が消えモヤのかかった白一色に統一された。
布団の中にあったのは仰向けになったパンダのぬいぐるみ、ココだけだった。
END