172-174ページ(009)撰時抄 建治元年(ʼ75) 54歳 西山由比殿 今、末法に入って二百余歳、大集経の「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」の時にあたれり。仏語まことならば、定めて一閻浮提に闘諍起こるべき時節なり。伝え聞く、漢土は三百六十箇国二百六十余州はすでに蒙古国に打ちやぶられぬ。華洛すでにやぶられて、徽宗・欽宗の両帝、北蕃にいけどりにせられて、韃靼にして終にかくれさせ給いぬ。徽宗の孫・高宗皇帝は、長安をせめおとされて、田舎の臨安行在府におちさせ給いて、今に数年が間京を見ず。高麗六百余国も新羅・百済等の諸国等も、皆、大蒙古国の皇帝にせめられぬ。今の日本国の壱岐・対馬ならびに九国のごとし。闘諍堅固の仏語、地に堕ちず。あたかも、これ大海のしおの時をたがえざるがごとし。
これをもって案ずるに、大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法の日本国ならびに一閻浮提に広宣流布せんことも疑うべからざるか。彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし。生死をはなるる道には法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども、六道・四生・三世のことを記し給いけるは寸分もたがわざりけるにや。いかにいわんや、法華経は、釈尊は「要ず当に真実を説きたもうべし」となのらせ給い、多宝仏は「真実なり」と御判をそえ、十方の諸仏は広長舌を梵天につけて「誠諦」と指し示し、釈尊は重ねて無虚妄の舌を色究竟に付けさせ給いて、後の五百歳に一切の仏法の滅せん時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて、謗法・一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと、梵帝・日月・四天・竜神等に仰せつけられし金言、虚妄なるべしや。大地は反覆すとも、高山は頽落すとも、春の後に夏は来らずとも、日は東へかえるとも、月は地に落つとも、このことは一定なるべし。 このこと一定ならば、闘諍堅固の時、日本国の王臣とならびに万民等が、仏の御使いとして南無妙法蓮華経を流布せんとするを、あるいは罵詈し、あるいは悪口し、あるいは流罪し、あるいは打擲し、弟子・眷属等を種々の難にあわする人々、いかでか安穏にては候べき。これをば愚癡の者は呪詛すとおもいぬべし。法華経をひろむる者は、日本の一切衆生の父母なり。章安大師云わく「彼がために悪を除くは、即ちこれ彼が親なり」等云々。されば、日蓮は、当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、また主君なり。しかるを、上一人より下万民にいたるまであだをなすをば、日月いかでか彼らの頂を照らし給うべき。地神いかでか彼らの足を載せ給うべき。 提婆達多は仏を打ちたてまつりしかば、大地揺動して火炎いでにき。檀弥羅王は師子尊者の頭を切りしかば、右の手、刀とともに落ちぬ。徽宗皇帝は法道が面にかなやきをやきて江南にながせしかば、半年が内にえびすの手にかかり給いき。蒙古のせめもまたかくのごとくなるべし。たとい五天のつわものをあつめて鉄囲山を城とせりとも、かなうべからず。必ず日本国の一切衆生、兵難に値うべし。されば、日蓮が法華経の行者にてあるなきかは、これにて見るべし。 教主釈尊、記して云わく「末代悪世に法華経を弘通するものを悪口・罵詈等せん人は、我を一劫が間あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべし」ととかせ給えり。しかるを、今の日本国の国主・万民等、がいにまかせて、父母・宿世の敵よりもいたくにくみ、謀反・殺害の者よりもつよくせめぬるは、現身にも大地われて入り、天雷も身をさかざるは不審なり。日蓮が法華経の行者にてあらざるか。もししからば、おおきになげかし。今生には万人にせめられて片時もやすからず、後生には悪道に堕ちんことあさましとも申すばかりなし。
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撰時抄 建治元年(ʼ75) 54歳 西山由比殿
今、末法に入って二百余歳、大集経の「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」の時にあたれり。仏語まことならば、定めて一閻浮提に闘諍起こるべき時節なり。伝え聞く、漢土は三百六十箇国二百六十余州はすでに蒙古国に打ちやぶられぬ。華洛すでにやぶられて、徽宗・欽宗の両帝、北蕃にいけどりにせられて、韃靼にして終にかくれさせ給いぬ。徽宗の孫・高宗皇帝は、長安をせめおとされて、田舎の臨安行在府におちさせ給いて、今に数年が間京を見ず。高麗六百余国も新羅・百済等の諸国等も、皆、大蒙古国の皇帝にせめられぬ。今の日本国の壱岐・対馬ならびに九国のごとし。闘諍堅固の仏語、地に堕ちず。あたかも、これ大海のしおの時をたがえざるがごとし。
これをもって案ずるに、大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法の日本国ならびに一閻浮提に広宣流布せんことも疑うべからざるか。彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし。生死をはなるる道には法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども、六道・四生・三世のことを記し給いけるは寸分もたがわざりけるにや。いかにいわんや、法華経は、釈尊は「要ず当に真実を説きたもうべし」となのらせ給い、多宝仏は「真実なり」と御判をそえ、十方の諸仏は広長舌を梵天につけて「誠諦」と指し示し、釈尊は重ねて無虚妄の舌を色究竟に付けさせ給いて、後の五百歳に一切の仏法の滅せん時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて、謗法・一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと、梵帝・日月・四天・竜神等に仰せつけられし金言、虚妄なるべしや。大地は反覆すとも、高山は頽落すとも、春の後に夏は来らずとも、日は東へかえるとも、月は地に落つとも、このことは一定なるべし。
このこと一定ならば、闘諍堅固の時、日本国の王臣とならびに万民等が、仏の御使いとして南無妙法蓮華経を流布せんとするを、あるいは罵詈し、あるいは悪口し、あるいは流罪し、あるいは打擲し、弟子・眷属等を種々の難にあわする人々、いかでか安穏にては候べき。これをば愚癡の者は呪詛すとおもいぬべし。法華経をひろむる者は、日本の一切衆生の父母なり。章安大師云わく「彼がために悪を除くは、即ちこれ彼が親なり」等云々。されば、日蓮は、当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、また主君なり。しかるを、上一人より下万民にいたるまであだをなすをば、日月いかでか彼らの頂を照らし給うべき。地神いかでか彼らの足を載せ給うべき。
提婆達多は仏を打ちたてまつりしかば、大地揺動して火炎いでにき。檀弥羅王は師子尊者の頭を切りしかば、右の手、刀とともに落ちぬ。徽宗皇帝は法道が面にかなやきをやきて江南にながせしかば、半年が内にえびすの手にかかり給いき。蒙古のせめもまたかくのごとくなるべし。たとい五天のつわものをあつめて鉄囲山を城とせりとも、かなうべからず。必ず日本国の一切衆生、兵難に値うべし。されば、日蓮が法華経の行者にてあるなきかは、これにて見るべし。
教主釈尊、記して云わく「末代悪世に法華経を弘通するものを悪口・罵詈等せん人は、我を一劫が間あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべし」ととかせ給えり。しかるを、今の日本国の国主・万民等、がいにまかせて、父母・宿世の敵よりもいたくにくみ、謀反・殺害の者よりもつよくせめぬるは、現身にも大地われて入り、天雷も身をさかざるは不審なり。日蓮が法華経の行者にてあらざるか。もししからば、おおきになげかし。今生には万人にせめられて片時もやすからず、後生には悪道に堕ちんことあさましとも申すばかりなし。
