293-297ページ(013)下山御消息 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
また「念仏無間地獄、阿弥陀経を読むべからず」と申すことも、私の言にはあらず。夫れ、弥陀念仏と申すは、源、釈迦如来の五十余年の説法の内、前四十余年の内の阿弥陀経等の三部経より出来せり。しかれども、「如来の金言なれば、定めて真実にてこそあるらめ」と信ずるところに、後八年の法華経の序分たる無量義経に、仏、法華経を説かせ給わんために、まず四十余年の経々ならびに年紀等をつぶさに数えあげて、「いまだ真実を顕さず乃至終に無上菩提を成ずることを得ず」と、そこばくの経々ならびに法門をただ一言に打ち消し給うこと、譬えば、大水の小火をけし、大風の衆の草木の露を落とすがごとし。しかる後に、正宗の法華経の第一巻に至って、「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」、また云わく「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ」と説き給う。譬えば、闇夜に大月輪の出現し、大塔を立てて後、足代を切り捨つるがごとし。 しかる後、実義を定めて云わく「今この三界は、皆これ我が有なり。その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり。しかるに今この処は、諸の患難多し。ただ我一人のみ、能く救護をなす。また教詔すといえども、信受せず乃至経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐かん。その人は命終して、阿鼻獄に入らん」等云々。経文の次第、普通の性相の法には似ず。常には五逆・七逆の罪人こそ阿鼻地獄とは定めて候に、これはさにては候わず。在世・滅後の一切衆生、阿弥陀経等の四十余年の経々を堅く執して法華経へうつらざらんと、たとい法華経へ入るとも本執を捨てずして彼々の経々を法華経に並べて修行せん人と、また自執の経々を法華経に勝れたりといわん人と、法華経を法のごとく修行すとも法華経の行者を恥辱せん者と、これらの諸人を指しつめて、「その人は命終して、阿鼻獄に入らん」と定めさせ給いしなり。 このことは、ただ釈迦一仏の仰せなりとも、外道にあらずば疑うべきにてはあらねども、已今当の諸経の説に色をかえて重きことをあらわさんがために、宝浄世界の多宝如来は、自らはるばる来給いて証人とならせ給う。釈迦如来の先判たる大日経・阿弥陀経・念仏等を堅く執して後の法華経へ入らざらん人々は入阿鼻獄は一定なりと証明し、また阿弥陀仏等の十方の諸仏は、各々の国々を捨てて霊山・虚空会に詣で給い、宝樹下に坐して広長舌を出だし大梵天に付け給うこと、無量無辺の虹の虚空に立ちたらんがごとし。 心は、四十余年の中の観経・阿弥陀経・悲華経等に、法蔵比丘等の諸の菩薩、四十八願等を発して凡夫を九品の浄土へ来迎せんと説くことは、しばらく法華経已前のやすめ言なり。実には、彼々の経々の文のごとく十方西方への来迎はあるべからず。実とおもうことなかれ。釈迦仏の今説き給うがごとし。実には、釈迦・多宝・十方の諸仏、寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんがためなりと出だし給う広長舌なり。我らと釈迦仏とは同じ程の仏なり。釈迦仏は天月のごとし、我らは水中の影の月なり。釈迦仏の本土は実には娑婆世界なり。天月動き給わずば、我らもうつるべからず。この土に居住して法華経の行者を守護せんこと、臣下が主上を仰ぎ奉らんがごとく、父母の一子を愛するがごとくならんと出だし給う舌なり。 その時、阿弥陀仏の一・二の弟子、観音・勢至等は、阿弥陀仏の塩梅なり、双翼なり、左右の臣なり、両目のごとし。しかるに、極楽世界よりはるばると御供し奉りたりしが、無量義経の時、仏の阿弥陀経等の四十八願等は「いまだ真実を顕さず」、乃至法華経にて「一に阿弥陀と名づく」と名をあげて、これらの法門は真実ならずと説き給いしかば、実とも覚えざりしに、阿弥陀仏正しく来って合点し給いしをうち見て、「さては、我らが念仏者等を九品の浄土へ来迎の蓮台と合掌の印とは、虚しかりけり」と聞き定めて、「さては、我らも本土に還って何かせん」とて、八万・二万の菩薩のうちに入り、あるいは観音品に「娑婆世界に遊ぶ」と申して、「この土の法華経の行者を守護せん」とねんごろに申せしかば、日本国より近き一閻浮提の内、南方補陀落山と申す小所を、釈迦仏より給わって宿所と定め給う。 阿弥陀仏は左右の臣下たる観音・勢至に捨てられて西方世界へは還り給わず、「この世界に留まって法華経の行者を守護せん」とありしかば、この世界の内、欲界第四の兜率天、弥勒菩薩の所領の内、四十九院の一院を給わって、阿弥陀院と額を打っておわするとこそうけたまわれ。 その上、阿弥陀経には、仏、舎利弗に対して凡夫の往生すべきようを説き給う。「舎利弗、舎利弗」また「舎利弗、舎利弗」と、二十余所までいくばくもなき経によび給いしは、かまびすしかりしことぞかし。しかれども、四紙一巻が内、すべて舎利弗等の諸声聞の往生・成仏を許さず、法華経に来ってこそ始めて華光如来・光明如来とは記せられ給いしか。一閻浮提第一の大智者たる舎利弗すら、浄土の三部経にて往生・成仏の跡をけずる。まして末代の牛羊のごとくなる男女、彼々の経々にて生死を離れなんや。 この由を弁えざる末代の学者等、ならびに法華経を修行する初心の人々、かたじけなく阿弥陀経を読み念仏を申して、あるいは法華経に鼻を並べ、あるいは後にこれを読んで法華経の肝心とし、功徳を阿弥陀経等にあつらえて西方へ回向し往生せんと思うは、譬えば、飛竜が驢馬を乗り物とし、師子が野干をたのみたるか。はたまた、日輪出現の後の衆星の光、大雨の盛んなる時の小露なり。故に、教大師云わく「白牛を賜う朝には、三車を用いず。家業を得る夕べには、何ぞ除糞を須いん。故に、経に云わく『正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ』と」。また云わく「日出でぬれば星隠れ、巧みを見て拙きを知る」云々。 法華経出現の後は、已今当の諸経の捨てらるることは勿論なり。たとい修行すとも、法華経の所従にてこそあるべきに、今の日本国の人々、道綽が「いまだ一人も得る者有らず」、善導が「千の中に一りも無し」、恵心が往生要集の序、永観が十因、法然が捨閉閣抛等を堅く信じて、あるいは法華経を抛って一向に念仏を申す者もあり、あるいは念仏を本として助けに法華経を持つ者もあり、あるいは弥陀念仏と法華経とを鼻を並べて左右に念じて二行と行ずる者もあり、あるいは念仏と法華経とは一法の二名なりと思って行ずる者もあり。 これらは、皆、教主釈尊の御屋敷の内に居して、師主をば指し置き奉って、阿弥陀堂を釈迦如来の御所領の内に国ごとに郷ごとに家々ごとに並べ立て、あるいは一万二万、あるいは七万返、あるいは一生の間一向に修行して、主師親をわすれたるだに不思議なるに、あまつさえ、親父たる教主釈尊の御誕生・御入滅の両日を奪い取って、十五日は阿弥陀仏の日、八日は薬師仏の日等云々。一仏誕入の両日を、東西二仏の死生の日となせり。これあに不孝の者にあらずや、逆路・七逆の者にあらずや。人ごとにこの重科有って、しかも人ごとに我が身は科なしとおもえり。無慙無愧の一闡提人なり。
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下山御消息 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
また「念仏無間地獄、阿弥陀経を読むべからず」と申すことも、私の言にはあらず。夫れ、弥陀念仏と申すは、源、釈迦如来の五十余年の説法の内、前四十余年の内の阿弥陀経等の三部経より出来せり。しかれども、「如来の金言なれば、定めて真実にてこそあるらめ」と信ずるところに、後八年の法華経の序分たる無量義経に、仏、法華経を説かせ給わんために、まず四十余年の経々ならびに年紀等をつぶさに数えあげて、「いまだ真実を顕さず乃至終に無上菩提を成ずることを得ず」と、そこばくの経々ならびに法門をただ一言に打ち消し給うこと、譬えば、大水の小火をけし、大風の衆の草木の露を落とすがごとし。しかる後に、正宗の法華経の第一巻に至って、「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」、また云わく「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ」と説き給う。譬えば、闇夜に大月輪の出現し、大塔を立てて後、足代を切り捨つるがごとし。
しかる後、実義を定めて云わく「今この三界は、皆これ我が有なり。その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり。しかるに今この処は、諸の患難多し。ただ我一人のみ、能く救護をなす。また教詔すといえども、信受せず乃至経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐かん。その人は命終して、阿鼻獄に入らん」等云々。経文の次第、普通の性相の法には似ず。常には五逆・七逆の罪人こそ阿鼻地獄とは定めて候に、これはさにては候わず。在世・滅後の一切衆生、阿弥陀経等の四十余年の経々を堅く執して法華経へうつらざらんと、たとい法華経へ入るとも本執を捨てずして彼々の経々を法華経に並べて修行せん人と、また自執の経々を法華経に勝れたりといわん人と、法華経を法のごとく修行すとも法華経の行者を恥辱せん者と、これらの諸人を指しつめて、「その人は命終して、阿鼻獄に入らん」と定めさせ給いしなり。
このことは、ただ釈迦一仏の仰せなりとも、外道にあらずば疑うべきにてはあらねども、已今当の諸経の説に色をかえて重きことをあらわさんがために、宝浄世界の多宝如来は、自らはるばる来給いて証人とならせ給う。釈迦如来の先判たる大日経・阿弥陀経・念仏等を堅く執して後の法華経へ入らざらん人々は入阿鼻獄は一定なりと証明し、また阿弥陀仏等の十方の諸仏は、各々の国々を捨てて霊山・虚空会に詣で給い、宝樹下に坐して広長舌を出だし大梵天に付け給うこと、無量無辺の虹の虚空に立ちたらんがごとし。
心は、四十余年の中の観経・阿弥陀経・悲華経等に、法蔵比丘等の諸の菩薩、四十八願等を発して凡夫を九品の浄土へ来迎せんと説くことは、しばらく法華経已前のやすめ言なり。実には、彼々の経々の文のごとく十方西方への来迎はあるべからず。実とおもうことなかれ。釈迦仏の今説き給うがごとし。実には、釈迦・多宝・十方の諸仏、寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんがためなりと出だし給う広長舌なり。我らと釈迦仏とは同じ程の仏なり。釈迦仏は天月のごとし、我らは水中の影の月なり。釈迦仏の本土は実には娑婆世界なり。天月動き給わずば、我らもうつるべからず。この土に居住して法華経の行者を守護せんこと、臣下が主上を仰ぎ奉らんがごとく、父母の一子を愛するがごとくならんと出だし給う舌なり。
その時、阿弥陀仏の一・二の弟子、観音・勢至等は、阿弥陀仏の塩梅なり、双翼なり、左右の臣なり、両目のごとし。しかるに、極楽世界よりはるばると御供し奉りたりしが、無量義経の時、仏の阿弥陀経等の四十八願等は「いまだ真実を顕さず」、乃至法華経にて「一に阿弥陀と名づく」と名をあげて、これらの法門は真実ならずと説き給いしかば、実とも覚えざりしに、阿弥陀仏正しく来って合点し給いしをうち見て、「さては、我らが念仏者等を九品の浄土へ来迎の蓮台と合掌の印とは、虚しかりけり」と聞き定めて、「さては、我らも本土に還って何かせん」とて、八万・二万の菩薩のうちに入り、あるいは観音品に「娑婆世界に遊ぶ」と申して、「この土の法華経の行者を守護せん」とねんごろに申せしかば、日本国より近き一閻浮提の内、南方補陀落山と申す小所を、釈迦仏より給わって宿所と定め給う。
阿弥陀仏は左右の臣下たる観音・勢至に捨てられて西方世界へは還り給わず、「この世界に留まって法華経の行者を守護せん」とありしかば、この世界の内、欲界第四の兜率天、弥勒菩薩の所領の内、四十九院の一院を給わって、阿弥陀院と額を打っておわするとこそうけたまわれ。
その上、阿弥陀経には、仏、舎利弗に対して凡夫の往生すべきようを説き給う。「舎利弗、舎利弗」また「舎利弗、舎利弗」と、二十余所までいくばくもなき経によび給いしは、かまびすしかりしことぞかし。しかれども、四紙一巻が内、すべて舎利弗等の諸声聞の往生・成仏を許さず、法華経に来ってこそ始めて華光如来・光明如来とは記せられ給いしか。一閻浮提第一の大智者たる舎利弗すら、浄土の三部経にて往生・成仏の跡をけずる。まして末代の牛羊のごとくなる男女、彼々の経々にて生死を離れなんや。
この由を弁えざる末代の学者等、ならびに法華経を修行する初心の人々、かたじけなく阿弥陀経を読み念仏を申して、あるいは法華経に鼻を並べ、あるいは後にこれを読んで法華経の肝心とし、功徳を阿弥陀経等にあつらえて西方へ回向し往生せんと思うは、譬えば、飛竜が驢馬を乗り物とし、師子が野干をたのみたるか。はたまた、日輪出現の後の衆星の光、大雨の盛んなる時の小露なり。故に、教大師云わく「白牛を賜う朝には、三車を用いず。家業を得る夕べには、何ぞ除糞を須いん。故に、経に云わく『正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ』と」。また云わく「日出でぬれば星隠れ、巧みを見て拙きを知る」云々。
法華経出現の後は、已今当の諸経の捨てらるることは勿論なり。たとい修行すとも、法華経の所従にてこそあるべきに、今の日本国の人々、道綽が「いまだ一人も得る者有らず」、善導が「千の中に一りも無し」、恵心が往生要集の序、永観が十因、法然が捨閉閣抛等を堅く信じて、あるいは法華経を抛って一向に念仏を申す者もあり、あるいは念仏を本として助けに法華経を持つ者もあり、あるいは弥陀念仏と法華経とを鼻を並べて左右に念じて二行と行ずる者もあり、あるいは念仏と法華経とは一法の二名なりと思って行ずる者もあり。
これらは、皆、教主釈尊の御屋敷の内に居して、師主をば指し置き奉って、阿弥陀堂を釈迦如来の御所領の内に国ごとに郷ごとに家々ごとに並べ立て、あるいは一万二万、あるいは七万返、あるいは一生の間一向に修行して、主師親をわすれたるだに不思議なるに、あまつさえ、親父たる教主釈尊の御誕生・御入滅の両日を奪い取って、十五日は阿弥陀仏の日、八日は薬師仏の日等云々。一仏誕入の両日を、東西二仏の死生の日となせり。これあに不孝の者にあらずや、逆路・七逆の者にあらずや。人ごとにこの重科有って、しかも人ごとに我が身は科なしとおもえり。無慙無愧の一闡提人なり。
