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開目抄下
文永9年(ʼ72)2月 51歳 門下一同
疑って云わく、念仏者と禅宗等を無間と申すは、諍う心あり。修羅道にや堕つべかるらん。また法華経の安楽行品に云わく「楽って人および経典の過を説かざれ。また諸余の法師を軽慢せざれ」等云々。汝この経文に相違するゆえに、天にすてられたるか。 答えて云わく、止観に云わく「夫れ、仏に両説あり。一には摂、二には折なり。安楽行に『長短を称せざれ』というがごときは、これ摂の義なり。大経に『刀杖を執持し乃至首を斬れ』というは、これ折の義なり。れ折の義なり。与奪途を殊にすといえども、ともに利益せしむ」等云々。 弘決に云わく「『夫れ、仏に両説あり』等とは○『大経に刀杖を執持す』とは、第三に云わく『正法を護る者は、五戒を受けず、威儀を修せず』○『乃至』より下の文は、仙予国王等の文なり。また『新医禁めて云わく、もしさらになすことあらば、当にその首を断つべし』と、かくのごとき等の文、ならびにこれ破法の人を折伏す。一切の経論この二つを出でず」等云々。 文句に云わく「問う。大経には、国王に親付し弓を持し箭を帯し悪人を摧伏せよと明かす。この経は、『豪勢を遠離し、謙下し慈善せよ』と。剛柔碩いに乖けり。いかんぞ異ならざらん。答う。大経はひとえに折伏を論ずれども、『一子地に住す』と。何ぞかつて摂受無からん。この経はひとえに摂受を明かせども、『頭破れて七分に作る』と。折伏無きにあらず。各一端を挙げて、時に適うのみ」等云々。 涅槃経の疏に云わく「出家・在家、法を護らんには、その元心の所為を取り、事を棄て理を存して大教を匡け弘む。故に『正法を護持せんには』と言う。小節に拘らず。故に『威儀を修せず』と言う○昔の時は平らかにして法弘まる。応に戒を持つべし。杖を持つことなかれ。今の時は嶮にして法翳くる。応に杖を持つべし。戒を持つことなかれ。今昔ともに嶮ならば、応にともに杖を持つべし。今昔ともに平らかならば、応にともに戒を持つべし。取捨宜しきを得て、一向にすべからず」等云々。 汝が不審をば、世間の学者、多分は道理とおもう。いかに諫暁すれども、日蓮が弟子等もこのおもいをすてず。一闡提人のごとくなるゆえに、まず天台・妙楽等の釈をいだして、かれが邪難をふせぐ。 夫れ、摂受・折伏と申す法門は、水火のごとし。火は水をいとう。水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう。折伏の者は摂受をかなしむ。 無智・悪人の国土に充満の時は、摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は、折伏を前とす。常不軽品のごとし。譬えば、熱き時に寒水を用い、寒き時に火をこのむがごとし。草木は日輪の眷属、寒き月に苦をう。諸水は月輪の所従、熱き時に本性を失う。 末法に摂受・折伏あるべし。いわゆる悪国・破法の両国あるべきゆえなり。日本国の当世は悪国か破法の国かとしるべし。
文永9年(ʼ72)2月 51歳 門下一同
疑って云わく、念仏者と禅宗等を無間と申すは、諍う心あり。修羅道にや堕つべかるらん。また法華経の安楽行品に云わく「楽って人および経典の過を説かざれ。また諸余の法師を軽慢せざれ」等云々。汝この経文に相違するゆえに、天にすてられたるか。
答えて云わく、止観に云わく「夫れ、仏に両説あり。一には摂、二には折なり。安楽行に『長短を称せざれ』というがごときは、これ摂の義なり。大経に『刀杖を執持し乃至首を斬れ』というは、これ折の義なり。れ折の義なり。与奪途を殊にすといえども、ともに利益せしむ」等云々。
弘決に云わく「『夫れ、仏に両説あり』等とは○『大経に刀杖を執持す』とは、第三に云わく『正法を護る者は、五戒を受けず、威儀を修せず』○『乃至』より下の文は、仙予国王等の文なり。また『新医禁めて云わく、もしさらになすことあらば、当にその首を断つべし』と、かくのごとき等の文、ならびにこれ破法の人を折伏す。一切の経論この二つを出でず」等云々。
文句に云わく「問う。大経には、国王に親付し弓を持し箭を帯し悪人を摧伏せよと明かす。この経は、『豪勢を遠離し、謙下し慈善せよ』と。剛柔碩いに乖けり。いかんぞ異ならざらん。答う。大経はひとえに折伏を論ずれども、『一子地に住す』と。何ぞかつて摂受無からん。この経はひとえに摂受を明かせども、『頭破れて七分に作る』と。折伏無きにあらず。各一端を挙げて、時に適うのみ」等云々。
涅槃経の疏に云わく「出家・在家、法を護らんには、その元心の所為を取り、事を棄て理を存して大教を匡け弘む。故に『正法を護持せんには』と言う。小節に拘らず。故に『威儀を修せず』と言う○昔の時は平らかにして法弘まる。応に戒を持つべし。杖を持つことなかれ。今の時は嶮にして法翳くる。応に杖を持つべし。戒を持つことなかれ。今昔ともに嶮ならば、応にともに杖を持つべし。今昔ともに平らかならば、応にともに戒を持つべし。取捨宜しきを得て、一向にすべからず」等云々。
汝が不審をば、世間の学者、多分は道理とおもう。いかに諫暁すれども、日蓮が弟子等もこのおもいをすてず。一闡提人のごとくなるゆえに、まず天台・妙楽等の釈をいだして、かれが邪難をふせぐ。
夫れ、摂受・折伏と申す法門は、水火のごとし。火は水をいとう。水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう。折伏の者は摂受をかなしむ。
無智・悪人の国土に充満の時は、摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は、折伏を前とす。常不軽品のごとし。譬えば、熱き時に寒水を用い、寒き時に火をこのむがごとし。草木は日輪の眷属、寒き月に苦をう。諸水は月輪の所従、熱き時に本性を失う。
末法に摂受・折伏あるべし。いわゆる悪国・破法の両国あるべきゆえなり。日本国の当世は悪国か破法の国かとしるべし。
