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開目抄下
文永9年(ʼ72)2月 51歳 門下一同
法華経に云わく「已今当」等云々。妙楽云わく「たとい経有って『諸経の王なり』と云うとも、『已今当の説に最もこれ第一なり』とは云わず」等云々。また云わく「已今当の妙、ここにおいて固く迷えり。謗法の罪は、苦長劫に流る」等云々。この経釈におどろいて、一切経ならびに人師の疏釈を見るに、狐疑の氷とけぬ。今、真言の愚者等、印・真言のあるをたのみて「真言宗は法華経にすぐれたり」とおもい、「慈覚大師等の真言勝れたりとおおせられぬれば」なんどおもえるは、いうにかいなきことなり。 密厳経に云わく「十地・華厳等の大樹と神通と、勝鬘および余経とは、皆この経より出でたり。かくのごときの密厳経は、一切経の中に勝れたり」等云々。 大雲経に云わく「この経は即ちこれ諸経の転輪聖王なり。何をもっての故に。この経典の中に衆生の実性・仏性・常住の法蔵を宣説するが故に」等云々。 六波羅蜜経に云わく「いわゆる過去無量の諸仏の説くところの正法、および我が今説くところのいわゆる八万四千の諸の妙法薀○摂めて五分となす。一には索呾纜、二には毘奈耶、三には阿毘達磨、四には般若波羅蜜、五には陀羅尼門なり。この五種の蔵もて有情を教化す○もし彼の有情、契経・調伏・対法・般若を受持すること能わず、あるいはまた有情、諸の悪業・四重・八重・五無間罪・謗方等経・一闡提等の種々の重罪を造るに、消滅して速疾に解脱し、頓に涅槃を悟ることを得せしめ、彼がために諸の陀羅尼蔵を説く。この五つの法蔵は、譬えば乳・酪・生蘇・熟蘇および妙なる醍醐のごとし○総持門は、譬えば醍醐のごとし。醍醐の味は、乳・酪・蘇の中に微妙第一にして、能く諸の病を除き、諸の有情をして身心安楽ならしむ。総持門は、契経等の中に最も第一となす。能く重罪を除く」等云々。 解深密経に云わく「その時に、勝義生菩薩また仏に白して言さく『世尊、初め一時において波羅痆斯の仙人堕処の施鹿林の中に在して、ただ声聞乗を発趣する者のためにのみ、四諦の相をもって正法輪を転じたまいき。これはなはだ奇、はなはだこれ希有にして、一切世間の諸の天人等、先より能く法のごとく転ずる者有ることなしといえども、彼の時において転じたもうところの法輪は有上なり、有容なり、これいまだ了義ならず、これ諸の諍論安足の処所なり。世尊、在昔第二時の中に、ただ発趣して大乗を修する者のためにのみ、一切の法は皆無自性・無生無滅・本来寂静・自性涅槃なるによって、隠密の相をもって正法輪を転じたまいき。さらにはなはだ奇にして、はなはだこれ希有なりといえども、彼の時において転じたもうところの法輪、またこれ有上なり、容受するところあり、なおいまだ了義ならず、これ諸の諍論安足の処所なり。世尊、今第三時の中において、あまねく一切乗を発趣する者のために、一切の法は皆無自性・無生無滅・本来寂静・自性涅槃にして無自性の性なるによって、顕了の相をもって正法輪を転じたもう。第一はなはだ奇にして、最もこれ希有なり。今世尊転じたもうところの法輪、無上・無容にして、これ真の了義なり。諸の諍論安足の処所にあらず』と」等云々。 大般若経に云わく「聴聞するところの世・出世の法に随って、皆能く方便もて般若甚深の理趣に会入し、諸の造作するところの世間の事業もまた般若をもって法性に会入し、一事として法性を出ずる者を見ず」等云々。 大日経第一に云わく「秘密主よ。大乗行あり。無縁乗の心を発す。法に我性無し。何をもっての故に。彼の往昔かくのごとく修行せし者のごとく、薀の阿頼耶を観察して、自性は幻のごとしと知る」等云々。また云わく「秘密主よ。彼はかくのごとく無我を捨て、心主自在にして、自心の本不生を覚る」等云々。また云わく「いわゆる空性は根境を離れ、無相にして境界無く、諸の戯論に越えて虚空に等同なり乃至極無自性」等云々。また云わく「大日尊は、秘密主に告げて言わく『秘密主よ。いかんが菩提。謂わく、実のごとく自心を知る』と」等云々。
文永9年(ʼ72)2月 51歳 門下一同
法華経に云わく「已今当」等云々。妙楽云わく「たとい経有って『諸経の王なり』と云うとも、『已今当の説に最もこれ第一なり』とは云わず」等云々。また云わく「已今当の妙、ここにおいて固く迷えり。謗法の罪は、苦長劫に流る」等云々。この経釈におどろいて、一切経ならびに人師の疏釈を見るに、狐疑の氷とけぬ。今、真言の愚者等、印・真言のあるをたのみて「真言宗は法華経にすぐれたり」とおもい、「慈覚大師等の真言勝れたりとおおせられぬれば」なんどおもえるは、いうにかいなきことなり。
密厳経に云わく「十地・華厳等の大樹と神通と、勝鬘および余経とは、皆この経より出でたり。かくのごときの密厳経は、一切経の中に勝れたり」等云々。
大雲経に云わく「この経は即ちこれ諸経の転輪聖王なり。何をもっての故に。この経典の中に衆生の実性・仏性・常住の法蔵を宣説するが故に」等云々。
六波羅蜜経に云わく「いわゆる過去無量の諸仏の説くところの正法、および我が今説くところのいわゆる八万四千の諸の妙法薀○摂めて五分となす。一には索呾纜、二には毘奈耶、三には阿毘達磨、四には般若波羅蜜、五には陀羅尼門なり。この五種の蔵もて有情を教化す○もし彼の有情、契経・調伏・対法・般若を受持すること能わず、あるいはまた有情、諸の悪業・四重・八重・五無間罪・謗方等経・一闡提等の種々の重罪を造るに、消滅して速疾に解脱し、頓に涅槃を悟ることを得せしめ、彼がために諸の陀羅尼蔵を説く。この五つの法蔵は、譬えば乳・酪・生蘇・熟蘇および妙なる醍醐のごとし○総持門は、譬えば醍醐のごとし。醍醐の味は、乳・酪・蘇の中に微妙第一にして、能く諸の病を除き、諸の有情をして身心安楽ならしむ。総持門は、契経等の中に最も第一となす。能く重罪を除く」等云々。
解深密経に云わく「その時に、勝義生菩薩また仏に白して言さく『世尊、初め一時において波羅痆斯の仙人堕処の施鹿林の中に在して、ただ声聞乗を発趣する者のためにのみ、四諦の相をもって正法輪を転じたまいき。これはなはだ奇、はなはだこれ希有にして、一切世間の諸の天人等、先より能く法のごとく転ずる者有ることなしといえども、彼の時において転じたもうところの法輪は有上なり、有容なり、これいまだ了義ならず、これ諸の諍論安足の処所なり。世尊、在昔第二時の中に、ただ発趣して大乗を修する者のためにのみ、一切の法は皆無自性・無生無滅・本来寂静・自性涅槃なるによって、隠密の相をもって正法輪を転じたまいき。さらにはなはだ奇にして、はなはだこれ希有なりといえども、彼の時において転じたもうところの法輪、またこれ有上なり、容受するところあり、なおいまだ了義ならず、これ諸の諍論安足の処所なり。世尊、今第三時の中において、あまねく一切乗を発趣する者のために、一切の法は皆無自性・無生無滅・本来寂静・自性涅槃にして無自性の性なるによって、顕了の相をもって正法輪を転じたもう。第一はなはだ奇にして、最もこれ希有なり。今世尊転じたもうところの法輪、無上・無容にして、これ真の了義なり。諸の諍論安足の処所にあらず』と」等云々。
大般若経に云わく「聴聞するところの世・出世の法に随って、皆能く方便もて般若甚深の理趣に会入し、諸の造作するところの世間の事業もまた般若をもって法性に会入し、一事として法性を出ずる者を見ず」等云々。
大日経第一に云わく「秘密主よ。大乗行あり。無縁乗の心を発す。法に我性無し。何をもっての故に。彼の往昔かくのごとく修行せし者のごとく、薀の阿頼耶を観察して、自性は幻のごとしと知る」等云々。また云わく「秘密主よ。彼はかくのごとく無我を捨て、心主自在にして、自心の本不生を覚る」等云々。また云わく「いわゆる空性は根境を離れ、無相にして境界無く、諸の戯論に越えて虚空に等同なり乃至極無自性」等云々。また云わく「大日尊は、秘密主に告げて言わく『秘密主よ。いかんが菩提。謂わく、実のごとく自心を知る』と」等云々。
