80ページ(005)
80ページ(005)
開目抄上
文永9年(ʼ72)2月 51歳 門下一同.
阿含・方等・般若の時、四教を仏の説き給いし時こそ、ようやく御弟子は出来して候え。これもまた、仏の自説なれども正説にはあらず。ゆえいかんとなれば、方等・般若の別・円二教は華厳経の別・円二教の義趣をいでず。彼の別・円二教は教主釈尊の別・円二教にはあらず、法慧等の大菩薩の別・円二教なり。これらの大菩薩は、人目には仏の御弟子かとは見ゆれども、仏の御師ともいいぬべし。世尊、彼の菩薩の所説を聴聞して智発して後、重ねて方等・般若の別・円をとけり。色もかわらぬ華厳経の別・円二教なり。されば、これらの大菩薩は釈尊の師なり。 華厳経にこれらの菩薩をかずえて善知識ととかれしはこれなり。善知識と申すは、一向師にもあらず一向弟子にもあらずあることなり。蔵・通二教はまた別・円の枝流なり。別・円二教をしる人、必ず蔵・通二教をしるべし。人の師と申すは、弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり。例せば、仏より前の一切の人天・外道は二天三仙の弟子なり。九十五種まで流派したりしかども、三仙の見を出でず。教主釈尊も、かれに習い伝えて外道の弟子にてましませしが、苦行・楽行十二年の時、苦・空・無常・無我の理をさとり出だしてこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて、無師智とはなのらせ給いしか。また人天も大師とは仰ぎまいらせしか。されば、前四味の間は、教主釈尊、法慧菩薩等の御弟子なり。例せば、文殊は釈尊九代の御師と申すがごとし。つねは諸経に「一字も説かず」ととかせ給うもこれなり。 仏御年七十二の年、摩竭提国霊鷲山と申す山にして無量義経をとかせ給いしに、四十余年の経々をあげて、枝葉をばその中におさめて「四十余年にはいまだ真実を顕さず」と打ち消し給うはこれなり。この時こそ諸大菩薩・諸天人等はあわてて実義を請ぜんとは申せしか。無量義経にて実義とおぼしきこと一言ありしかども、いまだまことなし。譬えば、月の出でんとして、その体東山にかくれて光西山に及べども、諸人月の体を見ざるがごとし。 法華経方便品の略開三顕一の時、仏略して一念三千、心中の本懐を宣べ給う。始めのことなれば、ほととぎすの音をねおびれたる者の一音ききたるがように、月の山の半ばをば出でたれども薄雲のおおえるがごとくかそかなりしを、舎利弗等驚いて諸の天・竜神・大菩薩等をもよおして、「諸の天・竜神等は、その数恒沙のごとし。仏を求むる諸の菩薩は、大数八万有り。また諸の万億国の転輪聖王は至れり。合掌し敬心をもって、具足の道を聞きたてまつらんと欲す」等とは請ぜしなり。文の心は、四味三教、四十余年の間、いまだきかざる法門うけたまわらんと請ぜしなり。 この文に「具足の道を聞きたてまつらんと欲す」と申すは、大経に云わく「薩とは具足の義に名づく」等云々。無依無得大乗四論玄義記に云わく「沙とは訳して六と云う。胡法には六をもって具足の義となすなり」等云々。吉蔵の疏に云わく「沙とは翻じて具足となす」等云々。天台、玄義の八に云わく「薩とは梵語、ここには妙と翻ずるなり」等云々。付法蔵の第十三、真言・華厳・諸宗の元祖、本地は法雲自在王如来、迹に竜猛菩薩、初地の大聖、大智度論千巻の肝心に云わく「薩とは六なり」等云々。妙法蓮華経と申すは漢語なり。月支には薩達磨分陀利迦蘇多攬と申す。善無畏三蔵の法華経の肝心真言に云わく「曩謨三曼陀没駄南〈帰命普仏陀〉、唵〈三身如来〉、阿阿暗悪〈開示悟入〉、薩縛勃陀〈一切仏〉、枳攘〈知〉、娑乞蒭毘耶〈見〉、誐々曩三娑縛〈如虚空性〉、羅乞叉儞〈離塵相なり〉、薩哩達磨〈正法なり〉、浮陀哩迦〈白蓮華〉、蘇駄覧〈経〉、惹〈入〉、吽〈遍〉、鑁〈作〉、発〈歓喜〉、縛曰羅〈堅固〉、羅乞叉𤚥〈擁護〉、吽〈空無相無願〉、娑婆訶〈決定成就〉」。この真言は南天竺の鉄塔の中の法華経の肝心の真言なり。この真言の中に「薩哩達磨」と申すは正法なり。薩と申すは正なり。正は妙なり、妙は正なり。正法華、妙法華これなり。また妙法蓮華経の上に南無の二字をおけり。南無妙法蓮華経これなり。 妙とは具足、六とは六度万行、諸の菩薩の六度万行を具足するようをきかんとおもう。具とは十界互具、足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり、満足の義なり。この経一部八巻二十八品六万九千三百八十四字、一々に皆妙の一字を備えて三十二相八十種好の仏陀なり。十界に皆己界の仏界を顕す。妙楽云わく「なお仏果を具す。余果もまたしかり」等云々。 仏これを答えて云わく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云々。衆生と申すは舎利弗、衆生と申すは一闡提、衆生と申すは九法界。衆生無辺誓願度、ここに満足す。「我は本誓願を立てて、一切の衆をして、我がごとく等しくして異なることなからしめんと欲しき。我が昔の願いしところのごときは、今、すでに満足しぬ」等云々。 諸大菩薩・諸天等、この法門をきいて領解して云わく「我らは昔より来、しばしば世尊の説を聞きたてまつるに、いまだかつてかくのごとき深妙の上法を聞かず」等云々。 伝教大師云わく「『我らは昔より来、しばしば世尊の説を聞きたてまつるに』とは、昔法華経の前に華厳等の大法を説くを聞けども、と謂うなり。『いまだかつてかくのごとき深妙の上法を聞かず』とは、いまだ法華経の唯一仏乗の教えを聞かざるを謂うなり」等云々。華厳・方等・般若・深密・大日等の恒河沙の諸大乗経は、いまだ一代の肝心たる一念三千の大綱・骨髄たる二乗作仏・久遠実成等をいまだきかずと領解せり。
文永9年(ʼ72)2月 51歳 門下一同.
阿含・方等・般若の時、四教を仏の説き給いし時こそ、ようやく御弟子は出来して候え。これもまた、仏の自説なれども正説にはあらず。ゆえいかんとなれば、方等・般若の別・円二教は華厳経の別・円二教の義趣をいでず。彼の別・円二教は教主釈尊の別・円二教にはあらず、法慧等の大菩薩の別・円二教なり。これらの大菩薩は、人目には仏の御弟子かとは見ゆれども、仏の御師ともいいぬべし。世尊、彼の菩薩の所説を聴聞して智発して後、重ねて方等・般若の別・円をとけり。色もかわらぬ華厳経の別・円二教なり。されば、これらの大菩薩は釈尊の師なり。
華厳経にこれらの菩薩をかずえて善知識ととかれしはこれなり。善知識と申すは、一向師にもあらず一向弟子にもあらずあることなり。蔵・通二教はまた別・円の枝流なり。別・円二教をしる人、必ず蔵・通二教をしるべし。人の師と申すは、弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり。例せば、仏より前の一切の人天・外道は二天三仙の弟子なり。九十五種まで流派したりしかども、三仙の見を出でず。教主釈尊も、かれに習い伝えて外道の弟子にてましませしが、苦行・楽行十二年の時、苦・空・無常・無我の理をさとり出だしてこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて、無師智とはなのらせ給いしか。また人天も大師とは仰ぎまいらせしか。されば、前四味の間は、教主釈尊、法慧菩薩等の御弟子なり。例せば、文殊は釈尊九代の御師と申すがごとし。つねは諸経に「一字も説かず」ととかせ給うもこれなり。 仏御年七十二の年、摩竭提国霊鷲山と申す山にして無量義経をとかせ給いしに、四十余年の経々をあげて、枝葉をばその中におさめて「四十余年にはいまだ真実を顕さず」と打ち消し給うはこれなり。この時こそ諸大菩薩・諸天人等はあわてて実義を請ぜんとは申せしか。無量義経にて実義とおぼしきこと一言ありしかども、いまだまことなし。譬えば、月の出でんとして、その体東山にかくれて光西山に及べども、諸人月の体を見ざるがごとし。
法華経方便品の略開三顕一の時、仏略して一念三千、心中の本懐を宣べ給う。始めのことなれば、ほととぎすの音をねおびれたる者の一音ききたるがように、月の山の半ばをば出でたれども薄雲のおおえるがごとくかそかなりしを、舎利弗等驚いて諸の天・竜神・大菩薩等をもよおして、「諸の天・竜神等は、その数恒沙のごとし。仏を求むる諸の菩薩は、大数八万有り。また諸の万億国の転輪聖王は至れり。合掌し敬心をもって、具足の道を聞きたてまつらんと欲す」等とは請ぜしなり。文の心は、四味三教、四十余年の間、いまだきかざる法門うけたまわらんと請ぜしなり。
この文に「具足の道を聞きたてまつらんと欲す」と申すは、大経に云わく「薩とは具足の義に名づく」等云々。無依無得大乗四論玄義記に云わく「沙とは訳して六と云う。胡法には六をもって具足の義となすなり」等云々。吉蔵の疏に云わく「沙とは翻じて具足となす」等云々。天台、玄義の八に云わく「薩とは梵語、ここには妙と翻ずるなり」等云々。付法蔵の第十三、真言・華厳・諸宗の元祖、本地は法雲自在王如来、迹に竜猛菩薩、初地の大聖、大智度論千巻の肝心に云わく「薩とは六なり」等云々。妙法蓮華経と申すは漢語なり。月支には薩達磨分陀利迦蘇多攬と申す。善無畏三蔵の法華経の肝心真言に云わく「曩謨三曼陀没駄南〈帰命普仏陀〉、唵〈三身如来〉、阿阿暗悪〈開示悟入〉、薩縛勃陀〈一切仏〉、枳攘〈知〉、娑乞蒭毘耶〈見〉、誐々曩三娑縛〈如虚空性〉、羅乞叉儞〈離塵相なり〉、薩哩達磨〈正法なり〉、浮陀哩迦〈白蓮華〉、蘇駄覧〈経〉、惹〈入〉、吽〈遍〉、鑁〈作〉、発〈歓喜〉、縛曰羅〈堅固〉、羅乞叉𤚥〈擁護〉、吽〈空無相無願〉、娑婆訶〈決定成就〉」。この真言は南天竺の鉄塔の中の法華経の肝心の真言なり。この真言の中に「薩哩達磨」と申すは正法なり。薩と申すは正なり。正は妙なり、妙は正なり。正法華、妙法華これなり。また妙法蓮華経の上に南無の二字をおけり。南無妙法蓮華経これなり。
妙とは具足、六とは六度万行、諸の菩薩の六度万行を具足するようをきかんとおもう。具とは十界互具、足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり、満足の義なり。この経一部八巻二十八品六万九千三百八十四字、一々に皆妙の一字を備えて三十二相八十種好の仏陀なり。十界に皆己界の仏界を顕す。妙楽云わく「なお仏果を具す。余果もまたしかり」等云々。
仏これを答えて云わく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云々。衆生と申すは舎利弗、衆生と申すは一闡提、衆生と申すは九法界。衆生無辺誓願度、ここに満足す。「我は本誓願を立てて、一切の衆をして、我がごとく等しくして異なることなからしめんと欲しき。我が昔の願いしところのごときは、今、すでに満足しぬ」等云々。
諸大菩薩・諸天等、この法門をきいて領解して云わく「我らは昔より来、しばしば世尊の説を聞きたてまつるに、いまだかつてかくのごとき深妙の上法を聞かず」等云々。
伝教大師云わく「『我らは昔より来、しばしば世尊の説を聞きたてまつるに』とは、昔法華経の前に華厳等の大法を説くを聞けども、と謂うなり。『いまだかつてかくのごとき深妙の上法を聞かず』とは、いまだ法華経の唯一仏乗の教えを聞かざるを謂うなり」等云々。華厳・方等・般若・深密・大日等の恒河沙の諸大乗経は、いまだ一代の肝心たる一念三千の大綱・骨髄たる二乗作仏・久遠実成等をいまだきかずと領解せり。
