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  竜の口の法難のきっかけとなったのは、行敏という念仏僧が、大聖人を幕府に訴え出たことであった。行敏の背後には、大聖人を亡き者にしようと図る、鎌倉仏教界の実力者・極楽寺良観がいた。
 行敏の訴状には、教義に対する非難とは別に、「弥陀観音等の像を火に入れ水に流す」「凶徒を室中に集む」(御書一八一㌻)などの項目があった。おそらく、教義論争で大聖人を押さえ込むことは困難と考え、現在でいえば刑事事件に相当する内容を盛り込んで、大聖人の教団を弾圧する口実とする目論見だったと思われる。
 大聖人は、「弥陀観音等の像を火に入れ水に流す」と言うのであれば、確かな証人を出せと、即座に反論されている。そして、証拠を出せなければ、それは日蓮を陥れるために行った、良観らによる自作自演の謀略にほかならないと、指弾されている。
 また、「凶徒を室中に集む」という訴えに対しては、むしろ良観らの拠点である極楽寺などが、悪人たちを集めていると、経論等も引いて反論されている。大聖人は、常に、命の危険と隣り合わせの日々を送っておられた。凶徒に襲われ、大聖人が身に傷を被り、弟子たちが殺害されたこともあった。また、邪義を大聖人から破折された僧たちは、その事実を隠すため大嘘を権力者たちに吹き込み、大聖人を迫害させようとした。門下である武士たちは、大聖人を守ろうと、心を配っていたにちがいない。事実は、訴状の内容と全く異なるものであった。
 良観らの一派は、卑劣な事実無根の作り話や、針小棒大の論を掲げ、幕府に訴えたのである。そして、こうした訴えを取り扱う部署が侍所であり、その所司(次官)が、大聖人を憎む平左衛門尉であった。
 平左衛門尉は、形式的な取り調べを行っただけで、すぐに大聖人を捕らえ、短時間の調べで佐渡流罪の判決を下した。しかし、深夜に至って、処刑場の竜の口へ引き出したのである。ひそかに斬首に処そうとしたのだ。
 だが、斬首は失敗に終わり、大聖人は、相模国依智の本間六郎左衛門邸に、しばらくとどめ置かれることになった。明確な事情はわからないが、幕府内には、大聖人を赦免すべきであるとする勢力もあった。そのため、再三、評議が行われたが、結論が出ず、処分未決のまま、約一カ月の時間が経過することになる。
 大聖人は、「我今度の御勘気は世間の失一分もなし」(御書九五八㌻)と仰せのように、罪など何一つなかった。評議を重ねるほど、処罰する根拠が、あいまいになっていったと思われる。
 しかし、極楽寺良観や念仏者たちは、なんとしても、大聖人を無罪放免にしてはならないと考えた。彼らは、配下の手の者を使い、鎌倉で放火や殺人を行わせ、それらを大聖人門下の仕業だと讒言した。そして、当初の判決通り、大聖人は佐渡流罪と決定したのである。
 またも、良観らは、罪を捏造し、権力者に向かって讒言し、世論を操作したのである。冤罪によって処罰するという迫害の構造が、ここにある。
 日蓮大聖人の御在世当時とは異なり、現代は法治国家である。また、民主主義社会である。権力は分散され、その暴走に歯止めをかけるための制度化が進められてきたことも事実である。しかし、それだけに弾圧の方途も、より老獪で巧妙なものとなってきているといえるかもしれない。
 時には、法を拡大解釈し、違法として裁断し、ある場合には、過剰なまでに監視の目を光らせ、わずかでも法に抵触する可能性があれば、厳しく取り締まるということもあろう。また、一信徒の個人的な問題を、教団全体の問題として、摘発することもあり得よう。
 いずれにせよ、故意に社会的な問題をつくりだし、それを口実にして叩きつぶそうとするだけに、多かれ少なかれ、冤罪を生むことは間違いない。
 この大阪の事件が、まさにそれであった。