10  険路263-268
  この年の三月。ある日の午後のことであった。伸一が、外出から関西本部に戻って三階の仏間に入ると、一人の青年が、真剣に唱題していた。蓮華寺事件で留置されることになる青年である。
 彼は、大阪の地で、男子部の幹部として、懸命に奮闘していた。もともと大学進学を希望していたが、経済的理由から進学を断念し、九州・福岡で就職した。しかし、会社が営業不振のため、大阪にある本店に移らなければならなかった。薄給の生活は苦しく、前途の曙光も見いだせない日々に、悶々としていたのである。
 深夜、わびしくアパートの一室に戻ると、心に忍び寄ってくる悲哀を、どうすることもできなかった。さらに、そのころ、後輩が組織の中心者に抜擢され、複雑な思いをいだいていた。その心の内を、誰に打ち明けることもできず、彼は、孤独感を深めていたのである。
 この青年を、ずっと見守り、成長を願っていた伸一が、彼の悲哀と孤独の影を見逃すはずはなかった。
 青年は、後ろで題目を三唱する伸一に気づき、唱題をやめて、あいさつした。
 伸一は、微笑みを浮かべ、彼に話しかけた。
 「毎日、ご苦労さま。ところで、君の押し入れには、靴下が、いっぱいダンボール箱にたまっているだろうなぁ」
 「えっ、室長、なんでそれをご存じなんですか」
 「そりゃわかるさ。……ぼくも、寒々としたアパートに三年間、一人で住んだことがあるもの。臭い靴下が、ダンボール箱に、たくさんたまって閉口したよ。……そう、そう、枕がなくて、新聞を丸めて寝たこともあったっけ……」
 「ほう、室長にも、そんな時代があったんですか」
 「あるもないも、そういう厳しい時があったればこそ、今日の私があるんだよ。誰でも同じだよ。すべて仏道修行なんです」
 青年は、引き込まれるようにしゃべりだした。会合には、まだ間があって、誰も姿を見せない。平素、口数少ない彼が、伸一に対して多弁になったことは不思議だった。彼自身も、それに気がついていたが、誰にも話したこともない事柄が、口をついて、次から次へと出るのが不思議だった。
 その青年は語った。わびしい悲哀の数々を、思いの限り告白したといってよい。
 ──この身が、果たして将来どうなるものか。真面目に信心しているとはいえ、宿命的な悲哀の深さは、彼にとって、あまりにも深すぎる。
 伸一は、いちいち大きく頷いて聞いていた。そして、彼は、この青年のすべてを、胸につつみ込むように、温かい口調で言った。
 「君のことは、ずっと前から、私にはわかっていた。決して心配ない。このまま真剣に信心を続けさえすれば、心配ありません。多くの同志の姿から、はっきりと言えるんです。信じていいんです」
 青年は、無言のまま大きく頷いて、伸一を見つめた。
 「『全世界を征服せんとせば、まず汝みずからを征服せよ』というロシアの作家の言葉がある。自分の意志なんかで、己の悲哀は制覇できないとしても、それができるのが、この信心の修行だよ。これは間違いない。
 私も、かつては今の君よりも、自分自身を情けなく思ったこともある。君も、私と全く同じなんだ。仏道修行は、親もとにあって甘えていてはできない。本当の仏道修行は、親もとを離れた厳しさのなかにあるんだ。今、君は、その最中だ。将来は、誰が保証しなくとも、御本尊様は保証してくださっている。頑張ろうじゃないか。今の戦いのすべてが、仏道修行なんです。
 君、わかってみれば、人生は劇場の舞台みたいなものだ。みんな登場人物となって、一生懸命に劇を演ずるしかない。人生は劇だからです。君も、広宣流布の登場人物となったからには、努力を積んで名優になることだ。君は、必ずなれる。私と一緒に戦おうじゃないか!」
 「はい、ぜひ、お願いいたします」
 青年は、〝今、俺は劇を演じているのか〟と、ふと思った。すると、些細なことを気にして、じたばたしていた自分の姿が、心に浮かんできた。哀れな拙い俳優である。彼には、自分を笑って眺める余裕が、忽然として生まれた。〝どうせ演じるなら、大胆に演じよう〟と思った。
 伸一は、青年を見つめながら言った。
 「今日は、君とゆっくり話ができてよかった。記念に一詩を贈ろう。受け取ってくれたまえ」
 伸一は、便箋にさらさらと書き認めた。

  世紀の丈夫たれ
  東洋の健児たれ
  世界の若人たれ
  君よ
  一生を劇の如く

 この一詩は、青年の胸に、たちまち焼き付いた。
 彼に、悲哀と愚痴から決別する時が来た。四月、五月の戦いの最先端に立って、彼は、勇敢な戦士であった。そして、遂に留置場にまで、〝乗り込んで〟しまったのである。