ローマ人は生け贄の肝臓を使った占いを典型的なエトルリアの占い術とみなしていました。


しかし、文献によると、バビロンにもまったく同じ占い術があった事が確認されています。

これは、エトルリア民族の東方起源説の論拠となっています。



当時は、内臓の中で肝臓が一番重要な臓器だと思われていたのです。




イタリアの北部ピアツェンツァで、肝臓占いの神官学校で用いられていたらしい、青銅製の羊の肝臓が出土しています。


これの表面には、数々の神の名、例えばフフルンス(エトルリアのディオニュソス)、ウニ(ヘラ)、ティン(ゼウス)などが40の枠の中に刻まれています。



エトルリア文明はトスカーナ地方だけでなく、ラツィオ地方の一部とウンブリア地方にも及んでいました。


これはティレニア海周辺に限った話で、実際には北はポー川流域の大半(ボローニャ・マントヴァ・スピーナ)から南はカンパニア地方の一部(ポンペイ・カプア・ポンテカニャーノ)まで広がっていました。





紀元前6世紀から紀元前5世紀前半にかけて膨大な量のギリシア陶器がエトルリアに輸入されています。


それらは量もさることながら、質においても、非常に優れている物ばかりでした。



たとえば、紀元前570年頃製作されたフランソワのクラテル(混酒器)は、アッティカ陶器が世界(地中海域)に通用するようになったばかりの頃であるにもかかわらず、すでにエトルリア人の手に渡っています。


しかも、これほど丹念に神々を描き出した当時の陶器は、アッティカでは出土していません。



また、紀元前540年前後に活躍した「アマシスの画家」や、エクセキアスなど、ギリシア黒像式陶画家を代表する作家たちの作品の多くもエトルリアで発見されているのです。




こういったことからも、エトルリアがかなり豊かであったと推測されているのです。