本日は

「バスティーユ、
聖女の恍惚、愛の牢獄」


という作品を通して

想像力と
極めて私的な人生観

というテーマについて

考えてみたいと思います。






人は

それぞれの人生を歩み

それぞれの経験を積むことで

生きる意味や価値を

見出していきます。






がんばる事の大切さ

人を愛する素晴らしさ

などは

人生経験を経て
理解していく

ものだと思います

(^^)






けれどもし…



生きる意味や価値を
疑うような
体験


をしてしまった場合は

どのような人生観になるのでしょうか?






本日の

「バスティーユ、
聖女の恍惚、愛の牢獄」


そんな

極めて特異な
経験をした人



考えていること

を描いた

少し難解な映画です。


↑遠い目をした少女。
彼女はなぜ、焦点の定まらない目を
しているのでしょうか…







難解な理由。





それは

普通の人が
共感しえない体験

だからです。






主人公の女の子は常に

人生について
自問自答

し続けています。



↑主人公役の
アストリッド・ベルジュ=フリスベ

パイレーツ・オブ・カリビアンの
人魚役の女の子です(^^)






彼女には恋人がおり

映画のほとんどは

彼と抱き合っているのですが

愛し合いながらも常に

何かを問いかけ続けるのです。


↑映像がとても美しくアート的なので
いやらしさは
あまり感じないテイストです。







問いかける内容は

「死」と「神」

に関すること。






映画の冒頭

彼女は恋人に語りかけます。






子供に乳をあげる母親が
座っている。

彼女はもう死んでいるのだが
乳は出ている

赤ちゃんは母親から
生と死の両方を与えられる。






と…





彼氏としては

返答に困るような内容ですね

( ̄_ ̄ i)






けれどこれが

彼女の心の風景

なのです。

↑彼女の心の中の風景は
カットバックで挿入されます。

緊張感の漂う
謎解きのヒントのような映像です。







彼女は

母親を殺されています。



殺したのは父親です。



父親は、精神が不安定でしたが

母親は、病院には入れず

一緒にくらしていました。




父親が母親を殺した理由は


死は
乗り越えられない障害
ではない



と思ったから

死んでしまった母親の横で眠った父親は

彼女が

永遠の存在になった

と認識します。





( ̄□ ̄;)!!






そして彼女は

神を感じたがっています。




神という存在は、

我々人間に救いをもたらすもの。





で、あるならば

この事件の意味も

神の慈愛から来るものであり

彼女としては

神が彼女に、何を与えてくれたのか

を教えて欲しいのです。





彼女は神に手を差し伸べますが

神が彼女の手を取ることはありません。


↑彼女にとっては
父親の母親殺しも
神の御手になる慈愛のはず

けれど彼女に
差し伸べられる手はないのです…






だからこそ彼女は

悩み続けます。





私は
神から愛をもらえない人間
なのか?


ということを…。








これは、

かなり強烈な体験ですね。






そう。





彼女にとって人生とは

この鮮烈な体験を
どのように解釈し

神や愛と
結びつけらるのか


模索し続けていく
もの

なのです。






そして恐らく

部外者である私たちは

彼女の心の中の想いを

完全に理解してあげられることは

できないのです…






けれど

映画という媒体で

表現されたからこそ

断片的にではありますが、

彼女の心の奥底を

垣間ることができたのです。






この映画は

監督、制作、脚本

すべて

シャイアン・キャロン

という方によるもの。





一体、彼女は

どんな体験をされたのでしょう?





ひょっとして

映画の内容と同じ体験

だとしたら…






彼女は心の中で

生と死と神の愛について

これからもずっと

問い続けていくのでしょう…




↑この映画では「手」も
重要なモチーフ。

果たして彼女の心の中の悩みに
救いの手を差し伸べられる人は
存在するのでしょうか…




ではまた(*^ー^)ノ