前回の続きです。
前回、道徳教育の必要性をキリスト教の原罪を題材に説明したわけですが。
宗教の道徳教育をビジネスモデルにそのままスライドさせるといっても、キリスト教の善悪の判断基準は神の教えに従うこととされています。
ところが、私達の社会の科学は、宗教の神の存在や天国や地獄を否定してしまっているのです。
善悪の基準を教えている根本を否定してしまっているのですから、そのままスライドさせても説得力がないとなってしまいます。
そこで今回は、善悪とは何か、善悪をどうとらえればいいのかについて説明しておきたいと思います。
善悪とは、善行、悪行のことですが。
宗教では、善行を行うと天国にゆき、悪行をおこなうと地獄にゆきます。
では質問ですが、善行も悪行も行わなかった者はどこへゆくのでしょうか?
答えは、天国です。
ようは、悪行さえおこなわなければ天国へいけるということです。
とすると、何もしなくても天国へゆけるわけですから、天国へゆく方法を考える必要はないとなります。もちろん善行は良いことですので、奨励はすべきですが。
善行をおこなわなかったからといって、罰をうけるわけではないということです。
となると、罰を受ける悪行とはどのようなものかを知ることが重要となるわけです。
では、答えから先に書きますと。
悪行とは、「他者の価値あるものを奪う行為」となります。
例えば命などがそうです。
だれだって命は惜しいですし、失いたくないと思っています。
このため命を奪う行為は悪行となり、罰を受けなければなりません。
しかしながら、他者の命を奪ったら必ず悪行とされ罰を受けなければならないのかとなると、そうではないといえます。
例えば正当防衛で他者の命を奪っても、悪行とはならず、罰も受けません。
これは、最初に他者の命を奪おうとする者がいた場合、それを止めるためにはその者の命を奪うしか他に方法がないと判断された時、許される行為とされているためです。
ようは、どうしも他者の命を奪わなければ、罪のない人の命が助けられないため、やもうえず奪われる命だから例外的に許されるとされているのです。
しかし、他者の命を奪って罰を受けるのに悪行ではないといったケースも考えられます。
例えば、自殺の幇助です。
病気により余命宣告をされ、残された人生には病気による苦痛しか残されていない。
もうこんな苦しい思いをして助からないのなら、自殺をして死にたいが自殺をする体力も残っていないので、医者や知り合いに自殺の幇助を以来する。
自殺の幇助は違法行為になりますので、法的に罰を受けます。
しかし、苦しむ患者や知り合いを苦痛から助けてやりたいと思うのは、どちらかというと善行になり悪行とはいえないのです。
このように殺人一つをとっても、人を殺したからといっても必ず悪行となるわけではないのです。
では、私達はこの悪行をどのように捉え、考えればいいのでしょうか?
このことについては、仏教思想に「三法印」という思想がありますので、そちらで説明してゆきたいと思います。
<三法印とは>
三法印は三つの真理からなっています。
「諸行無常(しょぎょうむじょう)」
「諸法無我(しょほうむが)」
「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」
この三つです。
諸行無常とは・・・この世のあらゆるものは変化・生滅してとどまらないこと。
諸法無我とは・・・いかなるものも原因や条件によって生じるものであり永久・不変のものではないこと。
涅槃寂静とは・・・三法印の無常、無我を悟ることで、欲望や、怒り、執着といった煩悩の世界から解脱し、静かな安らぎの悟りの境地に達すること。
と、なりますが。
これだけでは、仏教に詳しくない人は分からないと思いますので、私なりの解釈で説明させて頂きたいと思います。
まず諸行無常ですが、これは時間軸を指します。
長い時の流れの中で人々の考えや思いは変化し、消滅したりするということです。
次に諸法無我ですが、これは時間軸の一断面を現します。
時間軸の中で人の考えや思いは変化しますが。その時々の考えや思いは、さまざまな原因や条件によって形作られたもので、時間が流れてゆけば、原因や条件も変化するためその一断面の形も永久・不変ではなく変化してしまうということです。
あと涅槃寂静ですが、これは三法印の無常、無我の内には物事の真理が隠されており、それを知ることによって、欲望や、怒り、執着といった煩悩が消え去り静かな安らぎの悟りの境地に達するというものになります。
ではこれを踏まえた上で、家族の形を例に説明したいと思います。
昔の家族の形でいえば、男尊女卑で男は外で働き家族を食わせているから偉く、女は家庭で子育てをして男に従いなさい、というのが常識でした。
もちろん、諸行無常で時間は流れて形は変化しますから、現在では。
男女平等で、男と女はどちらが偉いというわけでもなく、男も女も外へ働きにゆき、どちらも平等に家事や育児をしなさい、というのが常識になります。
では、過去と現在どちらが正しいのでしょうか?
もちろん、現在の人は男尊女卑なんてとんでもない、男女平等が正しいに決まっているというでしょう。
ところが、過去にさかのぼって昔の人に聞いてみると、驚いたことに男女平等なんてとんでもない、男尊女卑が正しいに決まってるじゃないかというのです。
これは、いったいどうしてでしょうか?
昔の人はこう言います。
「男尊女卑が正しいに決まっている。男は女に比べて筋力が強いから同じ仕事をしても多くの作業ができる。女なんかに力仕事なんかさせていたら、家族を養うだけの収入を確保できないではないか。家族が飢えたらどうするつもりなんだ。それに男が家庭に入って子育てをしろといっても、男には乳が出せない。女が仕事で留守の時、赤ちゃんがお腹をすかせて泣いてもどうすることもできないではないか。これでは、子供を苦しめることになる。男女平等なんて、とんでもない。男尊女卑こそ正しい家族の形だ。」
なるほど、仕事というものが肉体労働ばかりの時代には、男が外に働きにいかなければ収入が減ってしまい家族が困るということのようです。
では、現代人はどう言っているのでしょうか?
「男尊女卑なんかありえない。昔と違って女が出来ないような肉体労働の職場の数は格段に減っている。女が働いて力を発揮できる場所なんかいくらでもあるじゃない・・・女の重役が少ない。女の議員が少ない。女の学者が少ない。女の総理大臣がいない。これってどういうこと、男尊女卑で差別をしているだけじゃない。いい加減にしなさい。男女平等こそ正しい家族の形です。」
諸法無我、いかなるものも原因や条件によって生じるものであり永久・不変のものではない。
家族の形も、その時代背景の原因や条件により変化してしまうものなのです。
形というものは、その時々の原因や条件で変化するものですから、正解がないのです。
でも私達は、これが正しいと言い、その形を他者に押し付けようとします。
家族の形もまた、私達の世界では、他者からこれが常識だと押し付けられるのです。
現代のある家族の母親は言いました。
「私達の家族は男尊女卑です。でも男女平等の家族でないからと私達を責めないで下さい。私は子供を産みました。可愛くて可愛くて仕方がありません。ですから、夫と話して専業主婦をやることにしました。私の夫は聡明で頼りがいがあり、出来の悪い私をいつも支えてくれています。私は一生夫についていくつもりです。夫は私の全てです。夫なしでは私は生きてゆけません。私は男女平等を否定はしませんが、しようとは思いません。私は男尊女卑のなかで生きてゆきたいのです。それが、私達夫婦の幸せだと気づいたのです。」
他にもこういった現代の家族もいました。
「私の夫はろくでもないヘタレです。何をやっても失敗ばかりです。また会社を首になったのです。でもこの人にも良い所だってあるのです。夫はすごく心の優しい人で、私達の子供を何よりも大切にかわいがってくれるのです。でも、ポンコツだからいつも失敗ばかり。もうこれ以上夫に仕事なんかさせてられません。私が一家の主となり、女尊男卑の家庭を作り。かかあ天下として一家を引っ張ってゆきます。これが私達家族にとっての最良の形だと、私は悟ったのです。」
家族とは、何なのでしょうか?
男女平等、男尊女卑、女尊男卑、これらは一つの形にすぎません。
涅槃寂静、無常と無我を悟ったものは、家族の形という執着を克服します。
男女平等という家族の形を克服し、男尊女卑、女尊男卑を家族の形にした者達の心の内にあったものは何なのでしょうか?
それは、お互いがお互いを認め、自分達の家族が幸福に生きられる道を探たことにあります。
「家族は子育てをする者達が、お互いを支え合い、幸せに生きるための形なのです。」
形が私達を幸せにするわけではありません。
幸せになるための形を、私達は選んでいるのです。
何のためにこの形が存在するのかという真理を知ることによって、欲望や、怒り、執着といった煩悩の世界から解脱し、静かな安らぎの悟りの境地に達するのです。
この悟りの境地のことを、仏教思想では涅槃寂静と呼んだのです。
他者に形を強要することは、他者にとって幸福という価値あるものを、奪うことになることもあるのです。
どの形が他者にとって価値あるものか、どの形が社会にとって最良のものか。
それは、その他者や社会の、置かれた立場や状態を知り、その奥にある真理を知らなければ、知ることはできないものなのです。
このため私達の世界の悪行とは、自らの思い込みで他者を避難し、相手の話もろくに聞かずに身勝手な形を押し付けようとすることだとなるのです。
つづきは、次回にしたいと思います。