日本で精神世界のイノベーションを起こせない理由についてです。

 

精神世界のイノベーションとは、愛や道徳を経済活動の中に取り入れるための、全く新しいビジネスモデルの構築になります。

ところが日本では村八分という悪習が常習化しており、イノベーションが起こせないのです。

そもそも精神世界のイノベーションの中には道徳が含まれているのですが。村八分は相手の言い分など一切聞かず人を裁いてもいいという魔女狩り制度であり。道徳の推奨とは真逆の制度のため、精神世界のイノベーションを起こそうとすると、村八分を推奨する者達の手によって村八分に合い潰されてしまうのです。

 

そして、この村八分が厄介なのは集団の意に反するものは潰しても良いという思考に基づいて行われるため。イノベーションのような価値基準の変更は、今までの職場のポストの変更をしなければならず、ポストを奪われる多くの者の反感を買い、村八分が起こり潰されてしまうのです。

 

このため、村八分という不徳が常習化してしまった企業や社会では、イノベーションが起きないばかりか、本来企業運営に必要な通常業務の改善すら起きなくなるのです。

どういうことかというと、昔からよく言われていることですが、会社の中で派閥を作り、お互いに足の引っ張り合いや潰し合いをするため、企業が成長できなくなるのです。

 

ところが企業というものは、ライバル会社との競争に勝たなければいけないため、新しい改善案を出せというわけです。でもお互いに足の引っ張り合いをしているわけですから、失敗をすると社内で叩き潰されてしまうため、今まであった成功例をほんの少し変えただけのアイデアを、全く新しい改善案ですと出してくるわけです。もちろんこんな改善案などライバル会社でもうすでにやっていることにすぎませんので、競争についていけなくなり市場から見放されてしまうことになるのです。

 

村八分社会を放置した結果、日本企業というのは失敗を恐れ、今までやったことを繰り返しやっているだけの、現状維持会社しか作れなくなってしまったのです。

現状維持だけでは、イノベーションはおろか通常の改善案すら出てきませんので、衰退の一途をたどるしかないのです。

そうやって衰退していった日本企業は数多く、かつて栄華を誇った日本の家電メーカーや自動車メーカーなどは次から次へと海外メーカーに買収されていっているのです。

 

今や村八分は日本の成長にとって最大の障害であり、この村八分社会を克服しないかぎり、日本企業どころか日本全体の崩壊を招いてしまうのです。

当然のことですが、日本の経済的繁栄は日本企業が稼ぐ外貨によってもたらされているものです。日本には資源がありませんので、外貨を稼いで資源を海外から輸入しなければ、今の文明は滅んでしまうのです。

しかし日本人の悪習である村八分が放置されているかぎり、日本企業は現状維持しかできませんので、イノベーションは起こせませんし通常の改善策も出てこず。日本は国際競争について行けず、いずれ終焉を迎えるしかないのです。

 

なぜ日本で、こんな村八分という悪習がはびこってしまったのかという経緯について書いておきますと。

村八分は元々は江戸時代の農村で百姓達がやっていた習慣になります。

江戸時代の日本の統治者は士族になりますが、士族達の管理する城下町では士族が作った法律に従って人々は生活をしていました。

ようは、村八分は士族達の目の届かない農村地帯の者達が、昔ながらの習慣である村八分で村の掟を破ったものは村八分にするぞと脅して、村を管理していたわけです。

もちろん、江戸時代の百姓達がやっていたことですから。そのころは、哲学や思想などというものは農村地帯にはありませんでしたから。何か問題が起こっても相手の言い分など一切聞かず。村の掟に反したから袋叩きだと、村八分の目にあわせていたのです。話し合いをして議論をするための、議論の前提となる知識がそもそもありませんでしたので、彼らはそうするしかなかったということです。

ではなぜ、そんな江戸時代の右も左も分からないような百姓の習慣が現代の日本で蘇ったのかというと。

これは太平洋戦争の敗戦によるものだといえます。

明治維新により江戸時代は終わり士族は解体されましたが。士族たちの精神的支柱である、武士道までは消えたわけではありませんでした。

武士道をあらわす有名な言葉に、山本常朝の葉隠の一節に「武士道と云うは死ぬことと見付けたり」があります。

武士道には主君に対する絶対忠義というものがありますが、かつての武士にとって主君というものは神様のような絶対的なものであり。その絶対的に正しいとされるもののためなら命をかけよという意味だったわけですが。そこはやはり人間でありますから、命をかけろといわれても命は惜しいからかけたくない。そこで迷って命が惜しいから、自分が正しいと信じたものを裏切るような行為をすることは、武士の道を外れる恥である。だから、命が惜しいからと迷うようなことがあるならば、武士道と云うは死ぬことと見付けたりと自分の死こそが武士であることの証であると悟り、正しいと信じたもののために死地へ向かいなさいといったわけで。

自分の信じた正義を貫くためには死をも厭わないというのが、武士道であるといったものになります。

ようは簡単にいうと、卑怯、卑劣な行為は命にかけてするな。そんなことをするようなやつは武士の恥だ。と、いったわけです。

こういった精神世界は士族がいなくなっても消えてしまったわけではなく、その後の日本でも生き続けました。例えば太平洋戦争の折には日本兵は手榴弾を持って敵兵がいる塹壕に飛び込み爆死をしていたわけですが。こんなことをしていた兵士がいるのは日本兵だけだったそうです。自分の正しいと思った精神世界のためなら死をも厭わないという武士道がまだ生きていたというわけです。

ところが日本は太平洋戦争で、日本国中の都市が大空襲にあい焼け野原にされ、さらに二つの原爆を落とされ、完膚無きまでに叩かれ終戦を迎えたわけです。

戦後の日本人の敗戦のショックというものは相当に凄まじかったようで、戦前の価値観というものがことごとく否定されたため。武士道からくる特攻などの精神世界も悪の根源のように否定されてしまったわけです。

しかし社会には、社会を統治するためのなんらかの価値基準が必要なわけですが。

今まであった武士道から来る、卑怯、卑劣なことはするなという精神世界は否定されているわけですから。

その代わりに社会の表に出てきた価値基準というのが、大昔から日本の農村地帯で生き続けてきた村八分というわけなのです。

そういった意味では、私達は未だに戦後を引きずって生きているのです。

 

そもそも、なんで現代人の私達が江戸時代の、それも百姓たちのやっていた村八分などをやらなければならないのでしょうか?

こんなものを引き継いでしまって、日本が成長できるといえるのでしょうか?

江戸時代の百姓たちがイノベーションを起こし、世界を代表するような全く新しいビジネスモデルを作れるのでしょうか?

 

もちろん答えはノーです。

戦後はとっくの昔に終わっています。

戦後の日本人が錯乱状態で引き継いでしまった価値基準、「おら達村社会の掟に背いたら村八分だぞ」といった社会など、とっとと蹴っ飛ばして、新しい日本を作るべきなのです。

 

「卑怯、卑劣なことはするな!」

 

私達が引き継ぐべきものは、「武士道」です。

士族こそが日本の正当な統治者です。

この国の精神世界を本来の持ち主に返すべきです。

私達は戦後の狂ってしまった精神世界を正すべきなのです。

そして、そうすることが日本の成長と発展につながるのです。

 

日本を終焉から救うために、子供達の未来のために、私達は今しなければならないことをすべきなのです。


 

それは「武士道」と言う名の「道徳」の復活なのです。


 

「道徳」の復活、それが今の日本の最大の課題なのです。

 

では、どうするのか?

今や人々の心のよりどころは経済です。

ならば、経済活動の一環であるビジネスモデルによって復活させるべきなのです。

 

その方法につきましては、次回にしたいと思います。


 

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