村社会と村八分。
村社会とは閉鎖的で、その組織や集団の中でしか通用しない価値観のことです。
村八分とは村社会での掟に従わなかった者を、疎外しようとする行為のことを指します。
どちらも日本で古くから行われてきた行為で、語源的には江戸時代から使われていたそうです。
どちらも現在では悪習ともいえるべき行為になります。なぜかというと、これらの行為は、その組織、集団でしか通用しない価値観に基づいて人を裁いているからです。
そもそも私たちの世界は法治国家であり、政府も国民も法律に従って行動をしなければならないとされています。
例えば、村社会のルールに従い、ある者の素行を断罪しようと、本人の反論も聞かず、多数派による勝手な言い分を正義とし、その者を組織や集団から追い出した場合どうなるかというと。まず、本人の反論も聞かず、本人を追い出すための悪評を広めているわけですから、これは名誉毀損罪に当たります。さらにこれが会社組織だった場合、本人の反論も聞かず勝手に有罪と決めつけ解雇するわけですから、これは不当解雇に当たります。どちらも違法行為であり、この村八分に関わった者には法的な処罰が待っています。
村社会や村八分は、中世から近世の頃に行われていた、問題解決のための一手段であり、司法制度が発達した現代において行われるべき制度ではないのです。
江戸時代の話をすると、士族の住む城下町では人々は法律に従い生きていたそうですが。城下町を離れ、士族の目の届かない農村地では法律とは関係なくその村々で古くから伝わる掟にに従って生きていたそうです。少し嫌な例を上げると、農村地で土木工事が上手く行かずに人々の心にストレスが溜まると、工事の成功を祈願して、村娘を人柱として生き埋めにして殺していたそうです。何故こんなことをやっていたのかと考えると。村娘にも家族や友人がいて、いくら村の掟とはいえ自分の娘や友達が、生き埋めにされる姿を見るのは、苦しくて辛いものです。泣き崩れる両親や友達の光景を村人たちははた目に見る事により。それに共感し「すまない、村のためなんだ。」と、彼らもまた悲劇の主人公がごとく泣き崩れるわけです。ようは、ここで行われているのはカタルシスであり、工事が上手く行かないというストレスを生き埋めになる村娘の家族に共感し、泣き崩れるという行為によって、ストレスの発散をして新たなスタートを切ろうとしているのです。もちろん生き埋めになる村娘からすると、何であなた方のストレス解消の道具として私が死ななければならないのですか?と、叫びたくなるところでしょうが。そんなことを言っても、村社会の掟ですから。断れば村八分にあい、家族もろとも村から追い出され路頭に迷って死ぬか。もしくは、家族もろとも袋叩きにあい、強制的に生き埋めにされるだけなのでしょう。
まったくゾッとする話ではありますが。まだ文明が発達していない中世や近世の頃の話ですので、その頃の人々の行いを現在の我々の物差しで測って非難しても仕方がないのでしょう。
ただ、このような村社会のルールとそれを裁くための村八分が残念ながら日本社会の中には残っており。これらの行為が犯罪行為であるということすら、ろくに理解されていないのです。
集団意識というものは怖いもので、自分たちが犯罪行為をしても、みんながやっているから大丈夫と思い込まされてしまうのです。
一応言っておきますと。1人で万引きをしようと、100人で万引きをしようと、万引きは万引きですので犯罪行為です。それどころか100人でやってしまったら集団窃盗団になりますから、さらに罪が重くなることでしょう。
何人でやろうとどうしようと、人の悪評を勝手に広め組織や集団から追い出そうとするのならば、それは犯罪行為になるのです。
村社会や村八分などは中世や近世の頃に流行った悪趣味なストレス解消方法であり。そんなものを現在でもやろうとするのは、子供のイジメ、嫌がらせと同じ低次元な悪態、悪習だといえます。
そしてこの事が、企業経営に大きな損失と未来に致命的な影を落とす事になるのです。
切りがいいので、続きは後日にしたいと思います。