赤穂浪士が吉良邸へ討ち入りした日は、元禄15年12月14日であるが、これは旧暦なので現代では1月20日頃と考えられる時期。そして元禄15年は西暦の1703年である。
討ち入り決行の当時は、前日から降りしきる雪が、当日の昼すぎには小降りとなった。・・・・・・浪士一行は午後に矢ノ倉の堀部弥兵衛宅へ集会する。
浪士一同は堀部弥兵衛の妻と、安兵衛の妻による料理を腹ごしらえにして、吉良邸へと討ち入りへと向う。・・・・・・堀部宅に集まったのは総員の3割ほどで、その他の浪士は本所を中心に3ヵ所に分散して集合している。
大石内蔵助と主税の父子が集合した場所が堀部宅であり、歌舞伎や映画の忠臣蔵では、蕎麦屋の2階に47士一同が集会する設定が多いのだが、討ち入り前に蕎麦は食べていない。
されど、しかしながら、現実には内蔵助が食したものは、堀部家の奥方による手料理で、菜の吸い物に煎り焼いた鴨肉入りの生卵かけご飯だったのが史実なのである。
池波正太郎の小説である『おれの足音』は、大石内蔵助の半生を描いた作品なのだが、討ち入り前の食べ物をこのなかでさりげなく描写されている。
池波氏の食にまつわるエッセイで、このところを詳しく説明したものがあり、鴨肉は2羽ほどを鉄鍋で炒りつけて、これを細かく刻み、大量の生卵をといた大鉢に、鴨の肉を混ぜ合わせて、浪士のご飯茶碗へかけて食べさせたようである。
池波氏もこれをまねて実践したところ・・・・・・なかなかの旨さであったとあり、ボクもこれを自分で狩猟した鴨を使い調理を試みたが、ナルホド!・・・・・・これはイケルと堪能した。
さて 『鬼平犯科帳』シリーズにも斯様な鴨料理の描写があるので以下に記述する。
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平蔵が入浴を終えて出て来ると、久栄が酒の肴の支度をととのえ、侍女に運ばせ、居間へあらわれた。
「鴨じゃな」
「はい」
鴨の肉を、醤油と酒を合わせたつけ汁へ漬けておき、これを網焼きにして出すのは、久栄が得意のものだ。つけ汁に久栄の工夫があるらしい。今夜は、みずから台所へ出て行ったのであろう。
それと鴨の脂身を細く細く切って、千住葱と合わせた熱い吸物が、先ず出た。
「久栄。わしに、このような精をつけさせて何んとするぞ?」
「まあ・・・・・・」
久栄は顔を赤らめた。
『火つけ船頭』
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鬼平では鴨は酒肴なので、「鴨と葱のお吸物」と「鴨の網焼き」なのだが、大石内蔵助の食した鴨は、大人数と腹ごしらえの事情もあり、鉄鍋で炒りつけたものに生卵かけご飯と吸物にしたようだ。・・・・・・赤穂浪士の討ち入りに食べた食事が、鬼平の鴨料理レシピの酒肴へと発展したと思しい描写でもある。
鬼平シリーズといえば軍鶏鍋がまず思い出される。鴨肉は冬の食材で西洋でもジビエとして珍重されている。いずれにしても狩猟鳥獣はその時代には滋養精力強壮剤であった。赤穂浪士一行に鴨肉で滋養をつけるように手配した堀部弥兵衛と安兵衛の妻たちのすばらしい献立に感嘆するものである。