本のなかの献立 その2『鰻のたたき』 | 空閨残夢録

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 東京に暮らしていた頃、残暑に耐えかねて、杉並の地下鉄南阿佐ヶ谷駅から新高円寺方面に歩いて5分ほどの武具道具専門店横の、青梅街道沿いにあった鰻屋で「うざく」と「うな胆焼き」に「鰻のたたき」でよく酒を飲んだ。その頃、杉並の界隈では「鰻のたたき」をだしてくれるお店は、ボクの知る限りでは、ここのお店だけであったと思われる。



 ボクは鰻の蒲焼はあまり食べない。別に嫌いなわけではないが、夜はご飯を食べない習慣なのだ。それに外食でお昼には麺類を食べる習慣であるからして、うな重とか、うな丼などはメッタに食べることはない。



 夜は鰻屋さんで白焼きを食べる。白焼きはメインディシュであるから、前菜にまず「うざく」をいただく。これは蒲焼にした鰻を細かく切って、胡瓜、青紫蘇、茗荷、生姜などと共に、三倍酢でいただく夏向きの料理。



 スープには、肝吸いをいただき、焼き物は肝焼きの串焼きで、意外に鰻を天麩羅でいただくのも美味しいが、斯様な趣向を凝らしてくれるお店など高級で行けない。



 ボクがよく通った南阿佐ヶ谷の鰻屋さんは、今では営業していないと聞くが、そこの「鰻のたたき」はタマラナイくらいに絶品だったし、庶民的な価格の店舗だった。



 その“鰻のたたき”は、白焼きにした鰻を、玉葱、紫蘇、茗荷などを薬味にして、これを土佐酢で食べるサッパリした味わいである。



 さて、小説の話しになるが、内海隆一郎という作家による作品に『鰻のたたき』という短編小説がある。この小説では、鳥取県は松江市内の鰻料理屋〔川郷〕の店主がつくる「鰻のたたき」が常連たちの定評あるお品書きなのであった。



 このお店は実在しているお店をモデルにしているみたいで、1997年に光文社文庫から『鰻のたたき』という表題で出版されている。これは10篇の短編小説が編まれた作品集であり、内容の全ては登場人物が市井の料理人であったり、料理に関した題目の内容でさりげなく語られる人情味豊かな味わいのある傑作選。



 内海氏の作品は、ごく一般的な庶民の日常を描いた哀歓ある作風で、とてもこなれた文章と文体で馴染みやすい読み物となっている。観念的であったり技巧的であったりしない描き方は、シンプルに料理自体も日常に浮かびあげて、なんとも美味しそうなのがステキなのだ。