十字架による磔刑とは、古今東西にみられた拷問の一つであり、残酷無比の刑罰なのであるが、磔が肉体に与える生理学的な状態、それが死にまで至る解剖学的な状況は意外に知られていないであろうと思われる。
ここに紹介する磔刑はローマ帝国の時代による拷問にして刑罰である。ご承知の通り、ナザレのイエスは十字架による磔刑で死に及んだ。このことをよく理解するには、2004年度米国映画作品の『パッション(The Passion of The Christ)』をご覧になることが、かなり知識としては近道となるでしょう。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書にもイエスが十字架により処刑される場面が描写されているが、メル・ギブソン監督による「イエス・キリスト」の最後の12時間を徹底的なリアリズムで描いた『パッション』は、・・・・・・この映画作品のなかで如実に拷問の凄惨さをリアルな映像で表現されている。
この映画が公開されて、映画館で観劇していたご婦人が気絶されたと巷間伝わるのだが、ボクも二度ほど直視できずに目を瞑るシーンがあり、かつて公開された如何なるホラー映画の幻想的にして残酷で残虐なシーンよりも過激である。その史実としての「イエス・キリスト」の拷問と刑罰の実態があまりにもリアル過ぎて、戦慄と震撼を与える容赦ない演出には驚愕のあまり脱帽してしまう。
さて、磔刑による拷問はあまりにも緩慢な呼吸困難を伴い、やがてくる窒息死を主に目的とした、極度に全身の苦痛を長引かせる為の、あまりにもサディズムの至高と呼んで間違いない加虐の極地といえよう。生理学的、解剖学的に、この磔刑についての物理的な苦痛と死に至る過程は・・・・・・
・・・・・・まず、磔刑の受刑者は、鞭を打たれることになっていたが、この鞭は強力なもので、打たれた者は皮膚が裂け出血するほどである。場合によっては打たれた者が死亡することがあり、それでは、この後の死刑執行が無意味になってしまうので、程々に打たれたものであろう。
鞭打ちの後、磔刑の受刑者は刑場まで自力で杭を運ぶことになっていたと伝わるが、受刑者が先に行われた鞭打ちで杭を運べない状況の場合、通りがかった者を徴用して運ばせたこともあったようである。ナザレのイエスもマタイ伝の第27章32節にあるように、シモンというクレネ人にイエスの十字架を背負わせたと記述がある。
杭(または十字架)は寝かされた状態で、まず受刑者は杭に釘で固定される。衣服は奪われ裸にされる。刑架は初めから十字架型になっている場合と、縦木と横木が分離されている場合があり、後者の場合はまず横木に受刑者の広げられた両手首を釘打ちされて、その状態で横木を吊り上げ、予め垂直に立てられた縦木に組み込まれて十字型、若しくは、T字型にされて架刑された。その後に脚部を釘打ちされたようだ。
キリスト教絵画の作品にある磔刑図では、よく手のひらを釘で磔台に打ち付けた姿が描かれるが、手のひらに釘を打つと、体重を支えきれず手が裂けて体が落ちてしまうので、手首の橈骨(とうこつ)と尺骨(しゃっこつ)と手のひら付け根の手根骨(しゅこんこつ)との間に釘が打たれた。この位置であれば自重を支えることが可能であり、骨折もなく、出血も比較的少量で済む。この位置に釘を打つと正中神経が破壊され、手と腕は麻痺する。更に脚を45度曲げた状態で足を打ち付ける。これにより杭が引き起こされてからは、受刑者は不自然な姿勢を取らざるを得なくなり、自重を支えるのが困難となる。
フラ・アンジェリコ、アンドレア・マンテーニャ、アルブレヒト・デューラー、ミケーレ・ダ・ヴェローナ、ラファエロ、ルーカス・クラナハ、マティアス・グリューネバルト、ミケランジェロ、ティツィアーノ、ティントレット、エルグレコ、バオロ・ヴェロネーゼ、ヤン・ブリューゲル、ビーテル・バウル・ルーベンス、グイド・レーニ、アンソニー・ヴァン・ダイク、ディエゴ・ベラスケス、レンブラント、フランシスコ・ゴヤ、ピエール=ポール・ブリュードン、ウジェーヌ・ドラクロワ、ポール・ゴーガン、マックス・クリンガー、エゴン・シーレなどがキリストの磔刑を描いているが、全て手のひらに釘を刺した描写となっているが、ルーベンスの絵のように足元に板がつけられた場合意外は前述したように自重を支えきれない。
あのサルバドール・ダリですら見事なリアリズムの極致で描いた磔刑図でも、物理的には、生理学的にも、解剖学的に際しても、科学的見地からは正しく無い構図といえるキリスト磔刑図を表している。1907年の作品で、「イエス・キリスト」の磔刑図を描いたロヴィス・コリントは手のひらに釘打ちは偉大な過去の画家たちと同じであるが、手首を縄で絞められている描写があり、これなら身体の自重を支える補強となるから、理屈としては通る構図である。
メル・ギブソン監督による『パッション』も、この部分のリアリズムを補強するために、手のひらに釘打ちして手首を縄で緊縛する措置とする映像としてある。
さて、杭が引き起こされ立てられて固定されると、受刑者の両腕に自重がかかり、受刑者は肩を脱臼する。その結果、胸に自重がかかり横隔膜の活動が妨げられる。受刑者は次第に呼吸困難になり、血中酸素濃度は低下する。血中酸素濃度の低下により心臓は心拍数を高め、これが血中酸素濃度の低下に拍車をかける。やがて受刑者の全身の筋肉は疲弊し、酸素が欠乏し、心筋は疲弊し尽くして機能を停止し、受刑者はやがて緩慢に長時間かけて絶命に至る。
健康で肉体が頑強な男子であれば、十字架上で三日間は生き延びた例が実際の記録に残っている。但し、少しでも早く死ねたら楽なのが磔刑なのである。ナザレのイエスの時代には刑場で六時間ほど十字架に晒し、とどめに足首の骨を大ハンマーで打ち砕いて終わりなのである。
足の骨を打ち砕くことにより、身体は完全にぶら下がった状態になるのだが、こうなると全く呼吸できなくなるので死んでしまう。それまで足が支えられていることで、受刑者は呼吸の為に背伸びをすることで空気を僅かに吸収できていたのだ。ゴルゴダの丘にはナザレのイエスと、その左右に受刑者がいたのだが、この二人の受刑者は予定通りにハンマーで足の骨を打ち砕かれてとどめをさされている。
しかし、ナザレのイエスは六時間の磔刑で既に死んでいて、それを確かめる為に、ローマ兵は槍でイエスの胸を刺す、すると血が溢れ、その後、水が流れたと、ヨハネ伝の第19章33章にある。
映画の『パッション』では、ナザレのイエスが六時間で死に至った経緯を鞭打ちの為だと言わんばかりに、かなり酷い鞭打ち場面を執拗に描写している。肋骨がうかんで見えるほどの皮膚が破れた状態の外傷をまざまざと映像に映し出す、この外傷によれば、やがて胸腔内で肺を包み込んでいる胸膜が炎症を起こし、水のような体液が溢れて肺を圧迫する。
つまり、この胸膜炎が磔刑による呼吸困難に更なる拍車をかけるという訳なのである。新約聖書の描写あるいは映画の『パッション』によるイエスの胸に刺した槍をローマ兵が抜くと、「水と血」が流れたという場面は解剖学的にも、生理学的にも、物理的にも正しい描写なのである。