セルジュ・ブールギニョン監督の映画『シベールの日曜日』(Cybele ou les Dimanches de Ville d'Avray)は、1962年製作のフランス映画。原作はベルナール・エシャスリオーの「ビル・ダヴレイの日曜日」である。
漸く、2010年にDVD化された美しくも哀しい愛と孤独を描いた名作である。ビデオでも発売されていなかった作品なので、尚のこと、この愛の悲劇の発売に映画を愛する者の待望の作品となる。
この映画は、少女フランソワーズと中年男性のピエールの愛と孤独の物語であるのだが、ピエールはインドシナ戦争から復員して心身を喪失し記憶も無くしていた。そんなピエールと少女フランソワーズが出逢うことで物語りは展開していく。
パイロットとしてインドシナへ従軍していたピエールは、戦場で少女を誤って殺してしまったと思い込むようになる。その戦争によるショックから記憶喪失となってしまったピエールは、復員後に病院で知り合った看護婦のマドレーヌと、パリ郊外のビル・ダブレイの町で同棲をするようになる。
しかし、それは一方的なマドレーヌの愛による庇護下に置かれた日常であり、自分を失ったピエールにとってはますます殻に閉じ籠る生活が全てだった。
そんな或る日、ピエールは父親に捨てられカトリックの寄宿学校に入れられた12歳の少女フランソワーズと知り合う。彼女もまた自分を失い、孤独な魂を抱えて彷徨っていたのだ。二人はお互いに喪失と欠落した魂の部分を埋め合わせるかのように次第に惹かれあっていく。
しかし親子程も年の離れた他人である二人の関係を世間が祝福してくれるはずもない。ピエールとフランソワーズは学校には父と娘と偽り、日曜ごとに池の畔での逢瀬を二人きりの時間を楽しんだ。しかしその嘘も長くは続かず、周囲から疑惑の目が向けられるようになった。二人の関係が純粋なものであり、互いに必要な存在であることを正しく理解していたのは、ピエールの恋人マドレーヌだけであった。
クリスマス・イブにピエールはフランソワーズが欲しがっていた他人の家の屋根上にある風見鶏を盗み出し、彼女はお返しにマッチ箱の中に書いた本名を彼にプレゼントする。マッチ箱の紙片には“シベール(Cybele)”と名前が書かれていた。そしてイブの夜を楽しんでいた二人のところへ、警官が偶々通りかかった。警官はピエールを、少女を誘拐しようとしている変質者と思い込み、その銃口が火を吹いた。
・・・・・・以上が、この映画のあらすじ、復員兵のピエールがフランソワーズとの最初の出逢いで、泣いている少女をあやそうと、硝子玉を見せて気を惹く場面の台詞が印象的である。
「ひとつおとりよ」
ピエールはマッチを擦って、手のひらの上にある硝子玉を照らして見せる。
「お星さまのかけらだヨ。空から落ちてきたんだ」
するとフランソワーズは、《星の欠片》が高価なものだと思って、・・・・・・「貰えないわ」と遠慮するのだが、こんなメルヘンのような二人の出逢いが、現代に生きるために、無垢なる心が如何様な報復を受けなければならないのか、そんな残酷な物語がセルジュ・ブールギニョン監督の映画である『シベールの日曜日』なのだ。
この映画のラストでピエールは警官に撃たれて死に、警官にフランソワーズは名前を問われて答えた言葉は、・・・・・・「もう私には名前など無いの、私はもう誰でも無いのよ」と、答える言葉には、硝子の欠片で胸の裡を撫でられるように、今でも忘れられない切なく哀しい科白だ。
ピエールを演じたハーディ・クリューガーの名演、フランソワーズ役のパトリシア・ゴッジのニンフェットのような美しくも哀しい姿に今でも胸をうたれる。
少女フランソワーズは修道院の寄宿舎に身を寄せていたが、復員兵のピエールにフランソワーズは本当の名前を紙片に書いて、マッチ箱に閉まってピエールにプレゼントするつもりであった。しかし、その思いは届くことは無く映画は終焉してしまう。
さて、フランソワーズがピエールに渡そうとしたマッチ箱の紙片には“シベール(Cybele)”と名前が書かれていた。フランソワーズの本当の名前は異教徒的であるという理由から、修道院ではフランソワーズと改名されて寄宿舎で生活をしていた。
それでは“シベール”という名前が何故?・・・・・・異教徒的な名前だったのであろうか。
シベールという名前を否定されて、フランソワーズと改名された少女は、“シベール”という名前に如何なる運命と深層が内包されていたのかを知らなかったが、この映画は単なる私的なファム・ファタルの物語ではなく、神話の構造を秘めた悲劇であり、神話的なエロスの劇場でもある。
シベールとは“Cybele”と表すが、ラテン語では「Cubele」と表記する。これは古代ギリシャから古代ローマで信仰されていた“Kybele”が語源である。つまり、ギリシャ神話に登場するキュベレーが、シベールの語源なのである。
もともとキュベレーとは、プリュギア(小アジア北部地方、現在のトルコ共和国中央部)のペッシヌースを中心地として広くアナトリア地方全体に渡って崇拝された豊饒の女神であった。
最初は、シリアのイーデー山の豊饒の女神だったが、やがて小アジア全域の太母神として、予言あるいは預言や託宣を、治癒と戦争の加護、獣の守護者など、さまざまな面で信仰を集めていた神である。
紀元前5世紀後半にアッティカ(ギリシア)に伝わり、ギリシアでは「神々の母レア」(ウラヌスの娘でクロノスの妻。ゼウスの母)と同一視されていた。紀元前4世紀末頃からキュベレーを信仰する特異で秘儀的な宗教がギリシア世界に流行りだし、庶民階級にも流行することになる。
その勢いはローマにも及び、第2次ポエニ戦争の時に、ローマでは、アウグスタ(大いなる者)、アルマ(養育する者)、サンクティスシマ(最も聖なる者)と呼ばれ、太母神、神々の母として、重要な神の一柱の地位にあり、キリスト教が普及する4世紀頃まで存在した。
ギリシア神話では、主神ゼウスが夢の中で洩らした精がアグドスの山に滴って、両性具有のアグディスティス(Agdistisはキュベレーと同一視される)が生まれたとされる。
アグディスティスは大変な乱暴者で、手を焼いた神々はアグディスティスを去勢することにしたが、誰もが尻込みしてしまい、その役目を実行したのはディオニュソスであった。彼はいつもアグディスティスが飲んでいる泉の水を葡萄酒に変えて眠らせ、その間に、髪の毛で作った縄でアグディスティスの男根を木に縛り付けたのである。
目覚めたアグディスティスは、暴れて自ら去勢してしまい、もぎとれた男根を地中に埋めたところ、そこからアーモンド(もしくは柘榴<いずれも女陰の象徴>)の木が生えてきたと伝わる。
近くを流れるサンガリオス河の精霊の娘ナナが、その木の実を摘んで懐に入れたところ、その実は消えて彼女は妊娠する。まもなくナナは男の子を産み、その子をアッティスと名付けた。
彼女はアッティスを山に捨てたが、牝山羊が彼を育て、彼は成長して美しい青年に成長した。或る時、女神となったアグディスティスは、成長したアッティスを見て恋に落ち、アッティスも女神の愛を受け入れその愛を裏切らないと誓ったのだが、若いアッ ティスは誓いを破り、ニンフのサガリティスを愛し、嫉妬したアグディスティスはサガリティスを殺す事になる。これを知ったアッティスは狂人となって自らの手で去勢した後に、自らを八つ裂きにして死んでしまった。
キュベレー信仰では、アッティスは、人類を救済するために殺されて、供儀のために生贄となり、救世主となったとされる。アッティスは被造物の創造者であるとともに、去勢する事により欲望と物質界の無制限な増大を戒めてもいる。
アッティスは、去勢され、松の木に十字に磔刑され、アッティスの身体から流れ出た聖なる血は、地上の罪をあがなう事になる。
アッティスは死んで埋葬されたが、3日目に“現世を統一する至高神”として復活する。アッティスを崇拝する人々は、「アッティスは救済された。あなたがたも試練を受けると救済されるであろう」と言葉にして祈る。
アッティスは新しい季節の太陽神として復活する事で、ローマでは、アッティスが復活したこの日を、ヒラーリア祭(Hilaria)と同時に祝い、人々は町へ繰り出して踊り、変装して練り歩く祭りとなる。この日は日曜日で、復活祭(Easter Sunday)はこれに由来し、以後ずっと続けられる。
このお祭りは、まるでキリスト教のイエス復活の話とあまりにも似ている。キュベレーの祭りと、キリスト教復活祭イースターとの類似性に気付いたキリスト教の神学者は、キリストの母マリアと神々の母キュベレーとの混同を戒め、キリスト教はキュベレー信仰を激しく斥けた。
キュベレーの祭は、アッティスの秘儀(ludi)と呼ばれるが、ガリ(Galli‘Galloi:ギリシャ語ではガロイ’)と呼ばれる祭司たちは、キュベレーの生贄として死んでいくアッティスを象徴する生贄の雄牛の血を浴び、そして、アッティスが復活するために母親の胎内に入ったことを象徴して、松の木で作ったアッティスの男根を太母神の聖なる洞穴に持ち込み、アッティスの像を、この松の木(十字架)にくくりつける。
その儀式の間、祭司や信者たちは、去勢されたアッティスにならって、自ら男根を切取り、自傷することで神と交感する。生贄とされた雄牛の男根とともに、女神にその切断した男根を捧げ、切断された男根はすべて太母神の聖なる洞穴に置かれる。ときには、切断された男根はとくにありがたいものとして、家々に投げこまれたりもした。
しかし、この祭りは、狂喜で錯乱した徒党が、手に持つ器具や刃物で身体を傷つけて血を流して狂いまわるという狂信的なものであったため、ローマでは、後に禁止させられたと伝わる。
映画の『シベールの日曜日』の少女フランソワーズの「シベール」というマッチ箱に隠された本当の名前が、何故に異教的であるかは、拙い文脈から理解していただけると思う。それは過去の盛んだったヘレニズムの異端の宗教であり、ヘブライズムの思想がカトリック社会に蔓延していた時代にフランソワーズとピエールが出逢ってしまった悲劇でもあった。
映画の表面と表層ではフランソワーズという可愛らしい無垢なる少女が映し出されているが、その少女には宿命的な深層と背景が秘められていた。それはファム・ファタルの原型が隠されていたのである。
キュベレーの両性具有神話と、この去勢の物語を深淵に秘めた『シベールの日曜日』には、フランソワーズを愛したピエールとは、異教的な供犠と生贄としての存在であると考えてみると、少女フランソワーズの存在には、その萌芽としてのファム・ファタルの幻影を内包させた悲劇とも考察できる。
表層ではフランソワーズという少女はファム・ファタルとしては見えないニンフェットのような存在であるが、無垢で純真なる清純な少女の宿命にはファム・ファタルとしての萌芽が名前に刻印されていたのである。
物語の深層では、その記憶を喪失することで無垢なる存在として、或いはキリスト教社会と戦争の犠牲となったピエールによる神話的な物語とも読める現代的な悲劇なのであるかも知れない。(了)