昭和31年に近代生活社刊行による奥野健男『太宰治論』が刊行されるが、この折りこみの「出版だより」に三島由紀夫の文章がある。それは三島による太宰批判の端緒であり、公による最初の太宰嫌いの発言でもあった。それでは以下に一部抜粋しておこう。
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・・・・・・私はたった一度、太宰氏に会ったことがある。学生時代、文学青年の友人に誘われて、太宰氏が大勢の青年に囲まれて、何か広い陰惨な部屋で酒を呑んでいるところへ私は入って行った。私は太宰氏の正面に坐っていた。そして開口一番、
「僕は太宰さんの小説がきらいなんです」
と言った。氏ははっきり顔色を変えて、
「何ッ」
と言った。それからしばらくして、思い返したように、うつむいて、横をむいたまま、
「なあに。あんなことを言ったって、好きだから来るんだ。好きでなくて、こんなところへ来るもんか」
と言っていた。
亡き太宰氏よ。日本人というものが、皆が皆、女のように、「あなたなんかきらい」と云って愛情を表現するとは決まっていないのである。それが証拠に、あれから十年後、あなたの容貌にまでケチをつけている男が、ここにちゃんと生きているのである。
何故私は太宰氏のところへ行ったか? それは大した問題ではない。人間は好奇心だけで、人間を見に行くことだってある。
さて、奥野健男氏は太宰文学が好きなのである。校正刷を一読して、今さらながら、その好きさ加減に瞠目した。
これだけ好きなら、何も文句を言うことはない。しかしこれは私にとって永遠に解けぬ謎であり、批評のもつ唯一の神秘であるが、正確を期した愛し方というものが人間にはできぬ以上、批評の最後の機能は、愛なのであるか? それとも正確さなのであるか?
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三島由紀夫は、三十歳過ぎての自殺は醜悪だ、四十歳で心中した太宰治など全く見るに耐えないと、何度も周囲に語っていたという。それでも自分自身が四十五歳になって、割腹自殺を遂げたのである。日本古来の伝統的である死の形式をもって、太宰は私的情痴心中であったが、三島は公的切腹におもえる自決を演出した。形式的には正反対にも思えるそれぞれの自裁であったが、結果的に死に様も太宰と三島は対極のスタイルを演じて自ら死に臨んだといえる。(了)