昭和58(1983)年に立風書房より『三島由紀夫おぼえがき』を澁澤龍彦は上梓するが、これは澁澤の三島論であり、エッセイおよび、対談などが収録された作品である。澁澤の個人的な思い出から、『花ざかりの森』から『豊穣の海』までの書評などを、高度な芸術観で描出した高く評価される三島由紀夫論の好著であろう。
三島由紀夫の有名な戯曲で幾度も上演された傑作『サド侯爵夫人』は、澁澤龍彦との邂逅がなければ生まれなかった名作といっても過言ではない。マルキ・ド・サド研究では本邦で第一人者でもある澁澤は、三島との出逢いもサドの翻訳本が機縁となっている。
それは、彰考書院版『サド選集』に序文をもらうために、澁澤が三島に初めて手 紙を出し たのが 昭和31(1956)年5月のことで、それより二人の交友は三島の死までつづくいた。
サド侯爵を通じて澁澤龍彦と三島由紀夫は縁を持つことになったが、二人の“サド”観はかなり異なっていた。それは澁澤のサド観は、徹頭徹尾、地中海的な伝統の上にたつ、18世紀のリベルタンとしてのそれであったが、しかし、三島のサド観は、これとはいくらか相違していたと、澁澤自信も後に述べている。澁澤のサドが、明るい幾何学的精神のサドとすれば、三島のサドは、暗い官能的陶酔のサド、つまり“神々の黄昏”としてのサドだったと澁澤は回想している。
澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』が上梓されたのが昭和39(1964)年のことであるが、三島は読了して澁澤に手紙で「サドが実生活では実に罪のないこと しかやっていないのを知り、愕きました」と書いてきて、書評では「 実にこの伝記を通読すると、すべては呆れるほどノーマルなのにおどろかせれる」と書いている。アブノーマルを期待していたのに、ノーマルだったのでがっかりした、とでもいっているかのような調子であったそうな。
昭和40(1965)年に澁澤の援助で三島は『サド侯爵夫人』を書き上げる。それから5年後、遺作となった『豊穣の海』の第三巻である「暁の寺」に登場するドイツ文学者の今西康は、誰が読んでもこれは澁澤龍彦がモデルであると想像してしまう人物であるが、そのことはさておき、今西康による“性の千年王国(ミレニアム)”のユートピア論が非常に面白く、この逆ユートピア幻想譚は「柘榴の國」という未来の世界として、物語の主軸から離れた幻想譚として登場する。
「あひかはらず人口はうまく調節されてをりますよ。近親相姦が多いので、同一人が伯母さんで母親で妹で従妹などといふこんがらかつた例がめづらしくないけれど、そのせゐかして、この世ならぬ美しい児と、醜い不具者とが半々に生れます。
美しい児は女も男も、子供のときから隔離されてしまひます。『愛される者の園』といふところにね。そこの設備のいいことは、まあこの世の天国で、いつも人工太陽で適度の紫外線がふりそそぎ、みんな裸で暮して、水泳やら何やら、運動競技に力を入れ、花が咲き乱れ、小動物や鳥が放し飼いにされ、さういふところにゐて栄養のよい食物を摂つて、しかも毎週一回の体格検査で肥満を制御されますから、いよいよ美しくならざるをえませんね。但しそこでは本を読むことは絶対に禁止されてゐます。読書は肉の美しさを何よりも損ふから当然の措置ですね。
国枝史郎、小栗虫太郎、江戸川乱歩、夢野久作、久生十蘭などの小説よりも《柘榴の國》の物語は、三島由紀夫と澁澤龍彦が絶賛した沼正三の『家畜人ヤプー』という奇妙奇天烈な小説に最も近いかも知れない。そ れは、この奇書も逆ユートピアの世界を描いていて、「柘榴の國」の世界は三島流の『家畜人ヤプー』ともいえるだろう。ただし、『 家畜人ヤプー』の小説で描かれているのは徹底的なマゾヒズムの世界だから、「柘榴の國」のサディステックでナルシズムの“鏡の国”の劇場は、性的嗜好や美意識の違いは趣きが全く異なり対極の世界を映している。
『家畜人ヤプー』は奴隷以下で家畜同然の日本人が悲惨な状況でありながら、沼正三による滑稽譚のようなブラックなレトリックにより、悲壮を超えて苦笑いこそ誘われる世界であるが、こと三島の硬質の文体で描かれる「柘榴の國」では、陰惨で血にまみれ悪徳の匂いが蔓延した世界は、反『家畜人ヤプー』としての座標軸に位置するかも知れない妄想と幻想の世界である。
さて、『仮面の告白』なのだが、この小説の第一章は、三島由紀夫の生誕から7歳までの記憶が綴られて、 第二章は13歳からの思春期の頃が書かれているのだが、そこで《聖セバスチャン殉教図絵》のエ ピソードが重要なポイントとして描かれていた。
第一章の主人公の少年時代の記憶として性的な重要なエピソードに、①汚穢屋(おわいや)の男のエピソードがあるが、つまり、糞尿汲取人が紺の股引を穿いて肥桶を前後に担ぎ坂を下るところの描写で、この時に主人公が「私が彼になりたい」、「私が彼でありたい」という欲求が私をしめつけたという件。
②絵本の白馬に跨り剣をかざすジャンヌ・ダルクの絵に偏愛して、美しい騎士の死に対して私の抱いた甘い幻想。
以上①~④のエピソードに主人公の記憶と性的に倒錯した感情が描かれているのだが、三島が憧れた女奇術師の松旭斎天勝について、④の記憶を話題としたい。
1895年 (明治28年)、神田松富町の質屋の娘だったが家業が失敗して、門前仲町の天ぷら屋に奉行人として勤める。店主が当時の一流奇術師・松旭斎天一(しょうきょくさい てんいち)だった事が縁で、器用さを見込まれ弟子として採用された。後に天一に妾になるよう迫られ、自殺を図るも一命は取り留める。それからは 奇術を積極的に自分の物にすると決心、妾を宿命とし受け入れた。弟子70人を数える『天一一座』でスターとして頭角を表わし、「天勝」として舞台へ出演した。
日本人離れした大柄な体格とキュートな美貌で人気を博し、数度に渡るアメリカ興行も成功させた。帰国後の公演では、スパンコールの衣裳に付け睫毛という日本初の欧米風なマジックショーを披露。モダンさと目新しさに大衆は熱狂した。
1911年(明治44年)、27歳で独立。座員100名を越す『天勝一座』の座長になった。一座のマネジャーを務めた野呂辰之助と結婚。奇術師の立場が強くなかったこの時代、一座と天勝を守るため野呂が考慮した便宜上の入籍だといわれている。
“奇術といえば天勝”という代名詞にもなったほどの 知名度を誇り、キャラクター商品なども当時は大ヒットした。その頃に得意芸としては水芸などがある。この人気と知名度とにあやかったニセ物の “天勝一座” も複数現れたと言われる。
引退後は姪に二代目へ天勝の名を譲る。50歳を過ぎてからスペイン語の学者と出逢い、一生を添い遂げた。二代目・引田天功(プリンセス・テンコー)も遡れば松旭斎一門へたどり着くといわれる。
少年・三島由紀夫も憧れた松旭斎天勝は、三島が生まれる10年も前に(大正4年)有楽町で魔術応用劇「サロメ」を演じている。それは前年の大正3年9月に島村抱月と松井須磨子の芸術座が、「サロメ」を帝国劇場で日本人による最初の公演をはたした翌年の事。
本郷座の川上貞奴も大正4年に「サロメ」を演じているので、この時、オスカー・ワイルドの「サロメ」の上演が流行となっていた ことが伺われる。
ワイルドの戯曲『サロメ』は森鴎外が本邦で初翻訳して紹介したが、昭和13年に日夏耿之介により翻訳された『院曲撒羅米』は、三島由紀夫のお気に入りの翻訳であり、1960年(昭和35年)に文学座で三島は日夏訳で「サロメ」の演出を果たしている。
浪漫劇場で三島由紀夫は日夏訳の戯曲「サロメ」の再上演の演出を予定していたが、1970年に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決したために、急遽1971年3月に浪漫劇場は三島由紀夫追悼公演として「サロメ」を上演して解散する。