1478年の初夏の頃、太田道灌の率いる足軽隊は小机城を目指して進軍していた。 俊敏をもって知られる足軽隊だが100騎そこそこ、敵軍は何倍もの勢力と思われる。 連戦の疲れもあり、兵士の間に不安が感じられた。 道灌は直ぐに


   小机は まず手習いの始めにて 

               いろはにほへと ちりぢりになる    


 と 即興の和歌を作って謳い、兵士達全員に合唱させて士気を

   鼓舞し、勝利を得たという。


  以後、この歌は、道灌足軽隊の軍歌として、他の戦にも使わ れていたようです。    

大宮そごうの三省堂で、あれこれ新本サーフィンをしていると、埼玉商工リサーチ社の『埼玉の企業』という本が目に止まった。 年に1~2度であろうか埼玉の主要企業の業績をリサーチして各業種別のランキングを発表しています。該当する会社の方々は、自社のランクや他社の動向も気になりますから、毎回買い求めるのでしょうが私などはパラパラと見れば買わないで済む本でした。 ところが今号はデーターや企業の解説の他に、県内のお城の紹介記事がたっぷり掲載されていてぐっと親しみやすい本に仕上っています。  早速、岩槻城についての記述を見ると、太田氏が築城したという説と行田の成田氏が築いたという説とが有って、良くは判らない」というような説明です。  この数年、お城案内の本が沢山出版されていますがいずれも、岩槻城については酷い事が書かれて居るばかりで、ただ呆れて居ました。しかし、今回はリサーチ会社の記事ともなると、見逃す訳にはいきません。  まず、会社に問いただすと「お城についてはM印刷社に一任した」という。 M印刷では、「お城の記事は、社外ライターのH氏に一任している。H氏を

(当方へ)説明に行かせる」という。  結局H氏が神妙な貌をして我が家に到来した。 既にM印刷から

私の名を聞かされ、ブログでもそれと知って覚悟してきた」という。 聞いて見ると、ブログなどで調べて

お城の説明を書いていたが、時間に追われていて、岩槻城については自分でもよく分からない儘に「判らない」と書いてしまった。「もっと良く調べるべきだった」と頻りに悔やんでいる。彼にしてみれば、事前に私に遭遇していれば・・という気持ちなのだろう。  何しろ、岩槻区が発刊してまだ1年も経たない最新の

「岩槻城址マップ」に

             築城者は、太田氏説・成田氏説・渋江氏説などの諸説が有ります。と書かれて

いるのですから 私も、市政区政に嘆きこそすれ、H氏を責めることは出来ません。

 彼が、今後は岩槻城について自分の納得できる執筆が出来るように、拙著「岩槻城は誰が築いたか」を

一冊買ってもらい、また、思いがけない出会いの記念に、私の旧著『五七五感性の改革』を一冊献上したというしだいです。




前回に 『岩槻ねぎ考』で多くのアクセスを戴きましたので、『岩槻ねぎ考』 ② をお届けいたします。

 まずご認識戴きたい事は、この欄でお話している『岩槻ねぎ』は岩槻ねぎという品種の葱であるという事

です。 現在の国の仕組みでは必ず生産地を明記することになっておりますので、越谷葱でも深谷葱でも岩槻で生産された葱は全て「岩槻ねぎ』或いは「岩槻産ねぎ」などと表示されて出荷し販売されております。  ですから、お求めになる時は必ず 『岩槻ねぎ』という品種の葱であるかどうか表示を確認したり

お店の方に尋ねて下さい。

 古典落語「たらちね」に語り継がれる『岩槻ねぎ』は約170年も昔の天保13年に舟運によって江戸へ出荷された記録が残されているという由緒ある郷土野菜なのです。 一本葱とは違って、一株が数十本に増えて大小太細まざった大株状になりますので、大量生産大量販売には不向きで高度経済成長の時代には市場から消え去って「まぼろしの岩槻ねぎ」となってしまいました。  しかし、味は良いし柔らかく薫りが高いし、辛味は少ない。 太いも細いも選んで必用な分だけ重宝に使えるので、農家の自家用として人知れず造りつないで来たのでした。 

  つい先日に、家内が「(岩槻ねぎで)こんなものが有った」と 細い小さな葱だけの袋を下げて帰ってきた。 私は予(かね)てから、岩槻ねぎを大中小(太中細でも良い)に分類してそれぞれの適正用途を知って戴くようなアプローチが欲しいと考えていましたので、「早くも動き出したか・・」と少しうれしい気持ちです。

 早速、その細い葱を普通に薄く切ってもらって、いま食べようとしていた真っ白いヨーグルトの上にバラ

撒くと岩槻ねぎの薄い緑が美しい。  スプーンで軽く混ぜて食べるとヨーグルトの独特の匂いは収まって

、岩槻ねぎの薫りが心地よい。 思いがけないデザートの誕生とはなりました。  絶対のおすすめです。