菅野 直(かんの なおし)

1921年(大正10年)9月23日 - 1945年(昭和20年)8月1日

日本の海軍軍人。海兵70期。太平洋戦争における撃墜王。

戦死認定による二階級特進で最終階級は海軍中佐。

菅野直は1921年(大正10年)9月23日、警察署長である父の次男として、日本占領下の朝鮮で産声を上げます。

父の故郷は宮城県でしたが、この時期は仕事で朝鮮半島に赴任中であった。

その後は、再び日本に戻り宮城県の豊かな自然の中で幼少時代を過すこととなりますが、この頃から既に稀代の快男児としての片鱗を見せ始めます。

とにかく底抜けに明るいキャラクターに、喧嘩となれば真っ先に先頭に立つといったガキ大将タイプであり、兄がイジメられれば上級生にでも平気で飛び掛かる強気な少年でした。

しかしながら、兄に対しては強い尊敬の念を持っていたようで兄弟喧嘩は一切なし、姉に対しては中学生になるまで同じ布団で寝るなど、甘えん坊の一面も有していた。

また、活発に遊び周りながらも、勉強を疎かにすることはなく、成績は常にトップクラスであり、中学の入学試験も一番の成績で通過した。

そして中学生となり、思春期を迎えた直でしたが、腕白さは相変わらず、石川啄木に憧れ短歌を読み、それが地方新聞のコンテストで入選するなど、芸術の面でもその才能を開花させて行きます。

中学の卒業を控え、大学進学を目指して勉強を始める直でしたが、決して裕福な家庭ではなかったため、兄に大学受験を勧め、自分は軍人として身を立てていくことを決心します。 

1938年(昭和13年)、17歳で海軍兵学校に入学した直は、3年後の1941年に無事に卒業、少尉候補生として戦艦の乗組員として、軍人としての人生をスタートさせます。

21歳の時には少尉に昇進しますが、これと同時に飛行学生となり、パイロットしての訓練を開始します。

飛行学校を卒業し、大分の航空隊に配属されますが、新米パイロットでありながら、模擬空中戦にて教官の背後を取るなど、そのポテンシャルの高さで注目を集めていました。

また、まだ教えられてもいない宙返りを独学で身に付けるなど、非凡な才能を見せますが、勢い余って着陸に失敗し、練習機を何台も大破させるなど破天荒な行動も目立ち、仲間内では「菅野デストロイヤー」と渾名されていました。

この時期に菅野が壊した戦闘機は、九六艦戦、零戦とその種類、台数も半端なものでは無かったようですが、不思議と自身が怪我をすることは無く、飛行学生時代の写真の裏には「stant(スタント)ハ終ワッタ」との走り書きも残されており、あるいは飛行機の性能限界を知るためにワザと無茶をしていたのかもしれません。

そして時は流れ、時代は大東亜戦争へと突入して行きます。

1944年12月第343海軍航空隊(通称・「剣」部隊)の戦闘301飛行隊(新選組)隊長に着任。

1944年(昭和19年)、24歳になった直は、分隊長として南方戦線に向かいました。

編隊を組んでの飛行中にはぐれた隊員を一人で捜索に行くなど、面倒見の良い分隊長であったようで、この当時部下だった者からも「ロクでもない指揮官も少なくなかったが、菅野さんはまれにみる立派な指揮官だなと思った」と評価されています。

また戦闘においても菅野直の活躍は目覚ましく、多くの敵を撃墜していたのはもちろん、飛行中の大型爆撃機に対して、上空1000mから急降下しながら攻撃するという戦法を編み出すなど、戦闘技術の開発にも一役かっていたとの記録が残っています。

だたしこの攻撃法、高度な操縦技術と底抜けの度胸が必要となるため、当時のトップパイロットの中でも真似が出来る者が殆ど居なかった。

菅野の機体の黄色のストライプ模様から米軍パイロット達の間では「イエローファイター」と渾名されて怖れられた。

この様に空中戦で大活躍を見せる直であったが、地上に降りてもその破天荒ぶりは健在であり、憲兵と喧嘩をした部下の引渡しを求められた際には「そんな奴は知らない。部下は渡さない」と憲兵を一喝したかと思えば、銃撃で受けた太腿の傷の手術を麻酔無しで済ませた。

そして果てには、着陸する基地を間違え指揮官に怒られたことに腹を立て、指揮官のテントをプロペラの風圧で吹き飛ばしてしまうという事件まで起こしていますが、類稀なる操縦技術故か罰らしい罰を受けることはなかった。

正に無敵の菅野直といったところですが、実は一度だけ敵に自機を撃墜された経験があります。

これは移動のため、部下が操縦桿を握っている時だったのですが、突如として現れた敵機の攻撃をもろに受けてしまいます。

体勢を立て直すため、「どけ、俺がやる」と部下から操縦桿を奪い取りますが、流石にこの時は不時着するのが精一杯であった。

その数日後、救助隊が直たちをルバング島という島で発見しますが、直は原住民から「プリンス菅野」として島の王様のように祭り上げられていたといいますから、彼のカリスマ性の前には人種や国境も関係がないようです。

1945年(昭和20年)8月1日九州に向けて北上中のB-24爆撃機編隊迎撃のため、隊長・菅野以下紫電改20数機は大村基地を出撃した。

屋久島近くに達すると島の西方にB-24の一団を発見し敵上方より急降下に入った。

菅野はこの日、愛機の「343-A-15」号機ではなく「343-A-01」号機での出撃であった。

この戦闘で菅野から戦闘第301飛行隊所属で彼の二番機・堀光雄飛曹長の無線に「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」と入電が入った。

これを聞いた堀が翼を傾け右下方を覗くと、自機のはるか下方を水平に飛ぶ菅野機を発見し即座に近づいたところ、左翼日の丸の右脇に大きな破孔を発見した。

堀はすぐさま戦闘を中止、二番機としての任務に則り菅野機の護衛に回ったが、菅野は敵の攻撃に向かうように再三指示した。

堀がそれでも護衛から離れないので菅野は拳を突き付けて見せ、堀はやむなく戦闘空域に戻った。

菅野から「空戦ヤメアツマレ」と入電があったため、堀は菅野がいると思われる空域へ向かうが、菅野機は空のどこにも見つからなかった。

燃料の続く限りの捜索、海軍基地、陸軍飛行場にも菅野の行方を探ったが見つかることはなかった。

この日の戦闘で菅野機を含む3機が未帰還となった。

菅野は行方不明のまま終戦を迎えたが、9月20日、源田司令は菅野を空戦での戦死として二階級特進を具申し、8月1日の戦死と正式に認定され中佐に昇進した。

菅野 直   享年23歳。

遺品として存命中に愛用していた財布が靖国神社の遊就館に展示されている。