安田 国継(やすだ くにつぐ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

通称は作兵衛。講談では安田作兵衛の名で知られ、明智三羽烏の一人とされている。

安田国継は1556年に美濃・安田村で生まれた。

幼名は岩福とされ、通称は安田作兵衛。

織田信長の重臣・明智光秀の配下である斎藤利三に仕えた。

1582年、亀山城を出立した明智光秀が沓掛で夜食を取り「本能寺の変」を決意した際には、謀反計画を知った兵が織田信長に密告するのを防ぐため、安田国継が先遣隊を組織を命じられている。

そして、先行して怪しい者が居れば即座に切り捨てるように命を受けているので、少なくとも明智光秀より信頼されていた事が伺える。

明智光秀
そして、本能寺では先鋒として進入し、槍にて織田信長に一番槍の手傷を負わせた。
信長

この時、行く手を阻んだ森成利(森蘭丸)に十文字槍で下腹部を突かれたが、逆に森蘭丸を討ち取ると言う功名をたてると言う武勇伝から明智三羽烏の1人として称された。
森 蘭丸(もり らんまる)
しかし、山崎の戦いにて羽柴秀吉に敗れて明智勢が敗走した際には、森蘭丸から受けた傷の治療のため参戦していなかった為、命拾いする。
こうして、安田国継は浪人となり天野源右衛門貞成と改名した。

武勇を見込まれてかつて討ち取った森蘭丸の兄・森長可に召抱えられたが、小牧・長久手の戦いにて森長可が討死すると、跡を継いだ森忠政を見て「子供に下げる頭はない」と言い出奔。

羽柴秀勝・羽柴秀長に仕えると、女を奪って出奔。

蒲生氏郷と仕えたが、いずれも長続きせしなかったと言う。
羽柴秀勝

三好を名乗っていたころの豊臣秀次にも仕えたが、普請役を気に食わず、軍装して出仕し「自分は戦う為に仕えており、普請させる家人は持っていない」と言い、これもうまく行かず出奔。
豊臣秀次

やがて、立花城主・立花宗茂に仕えると、豊臣秀吉による九州攻めにて戦功を挙げ、1592年からの朝鮮攻めにも従ったが立花宗茂と福島正則を不仲にする原因を探ったことから旧臣らと合わず出奔するという人生を送っていた。

可児才蔵でさえ1250石であったところを、安田作兵衛は一番槍を付けるのが特技だとして1万石を要求したともされ、1593年の碧蹄舘の戦いでの一番槍が十時伝右衛門であったことから、解雇されたともされている。

なお、若い頃に親友の寺沢広高と、どちらかが立身出世したら、もう片方を10分の1の俸禄にて召抱える約束をしていたとされ、寺沢広高が唐津城主8万石となった際に、10分の1の8000石にて安田国継は召し抱えられたと言う。

そのため、織田信長に一番槍を付けたという安田作兵衛国継の槍は「作兵衛の管槍くだやり」として、唐津城の郷土博物館にて展示されている。

管槍(くだりやり)とは、槍に管を取り付けて、管の部分を左手で握り、槍で突くときに右手で持った柄が素早く飛び出すように作られた槍のこととなる。

また、晩年には平野姓に改めたされるが、1597年6月2日に死去。享年42。

死因は頬にできた出来物が悪化したのを苦にして自害したとされている。
なお、自害した日は奇しくも織田信長の命日と同日であり、織田信長を刺した祟りと噂された。

安田国継の墓(安田作兵衛国継の墓)は唐津・浄泰寺にある。