森 成利(もり なりとし)森 蘭丸(もり らんまる)
安土桃山時代の武将。
森 蘭丸という名で知られる織田信長の近習である。
本能寺の変で主君と2人の弟と共に討死した。
織田信長と森蘭丸この2人の名前が並んで出てきたら、いわゆる男色関係でございます。
父は、織田信長の家臣・森可成で、森蘭丸は6人兄弟の3男となる。
母は、森可成の正室・えい(妙向尼、林通安の娘)。
父・森可成は美濃出身で、元々、土岐氏に仕えていたが、のち斎藤道三の家臣となり、1554年には織田信長の家臣となっていた。
1565年には美濃・金山城主、織田信長上洛の際には柴田勝家と共に先鋒を務め(勝竜寺城の戦いなど)、上洛後に近江・宇佐山城主となっていた。
森家は浄土真宗本願寺派。
その1565年に森蘭丸は尾張国葉栗郡蓮台にて誕生している。
1570年、森蘭丸が6歳のとき、父・森可成は坂本での浅井・朝倉連合軍との戦いで浅井玄蕃允隊、浅井長政旗本、朝倉方の山崎吉家隊、阿波賀小三郎隊らと交戦したが、織田信長の弟・織田信治や青地茂綱と共に討死。
長男の森可隆も父に先立ち朝倉攻めの姉川の戦いの際、18歳で亡くなっており、家督は次男・森長可13歳が継いだ。
森蘭丸は、1577年4月に織田信長の小姓となり、寵愛を受けたとされ、織田信長と衆道の関係にあったとされる。
1582年6月2日、本能寺の変において、明智光秀配下の安田国継(安田作兵衛)に討ち取られた。
森 蘭丸 享年18。
本能寺では、4男・森坊丸(森長隆)17歳と、5男・森力丸(森長氏)16歳も戦死している。
京都の阿弥陀寺。 森蘭丸・坊丸・力丸の兄弟墓石。
6男・森忠政は、本能寺の変の1582年から織田信長の小姓となったが、同僚の梁田河内守にちょっかいをかけられ、織田信長の前で梁田の頭を扇子で殴打した為「まだ幼すぎる」として1582年3月には美濃の母・えいの許に返されたのが幸いして、のち森家の家督を継いだ。
1584年4月9日には、兄の森長可も小牧・長久手の戦いで戦死した為、この森忠政が家督を継ぎ、1603年、小早川秀秋の死後、美作国186500石の大名となり、13年かけて津山城を築いている。