織田 信行(おだ のぶゆき)信勝(のぶかつ)

戦国時代の武将。

弘治3年11月2日(1557年)11月2日、清洲城において織田信長が、弟・信行を殺害しました。

名は一般に信行と流布しているが、自己発給文書では信勝(のぶかつ)、達成(たつなり)、信成(のぶなり)しか確認できていない。なお、信行の名以外では信勝と呼ばれる方が多い。

通称は勘重郎(勘十郎)。尾張末森城主。

若い頃の織田信長が、天下一のうつけ者と呼ばれていたのは有名なお話で・・・ペラペラの着物の片袖を脱いで、帯の代わりに縄を腰に巻いて、そこに火打ち石などぶら下げた、なんとも奇抜なファション。
信長

髪を茶せんのように結って、近所のワル仲間のヘッドをやって、フラフラ遊び歩いてばかりいました。

父・信秀が亡くなった時も、葬儀にその格好のまま現われ、仏前のお線香の灰を投げつける。

その葬儀の時でも、弟・信行は、姿形はもちろん、凛とした振る舞いで、兄・信長とは対照的でした。

当然、周囲には「そんな『うつけ者』の兄より弟のほうが織田家を継ぐにふさわしい」という声が出て来るようになります。

父が亡くなった後は、一応『うつけ者』を卒業し、尾張統一に向かって突き進む信長でしたが、そうなっても、まだ信行を押す家臣たちも多く、最終的に織田家の中では、信行が最大のライバルとなっていました。

ところが、弘治二年(1556年)信長の才覚を見抜いて高く評価していた隣国・美濃(岐阜県)の斉藤道三が息子・義龍との戦いに敗れて亡くなってしまいます。
斉藤道三

その後すぐに信行は、柴田勝家や林秀貞(ひでさだ)らの重臣を見方につけて、信長に反旗をひるがえします。

信行にしてみれば、やはり「織田家を継ぐのは兄より自分のほうがふさわしい」という気持ちがあったのかもしれません。

受けて立った信長は、勝家や通勝らを次々と打ち破り、追い詰められた信行は自分の城で籠城の構えです。

そんな時、信長・信行兄弟の生母の実家である土田氏が間に入り、この戦いは一応、和睦・・・という事で終結を向かえました。

しかし、翌・弘治三年、信行は再び謀反を企てますが、今度は勝家がその計画を信長に密告します。

かくして、弘治三年(1557年)11月2日・・・信長は「重い病気にかかった・・・」と、ウソをついて、信行を清洲城におびき寄せます。

そして、そうとは知らずやって来た信行を、信長は有無を言わさず、河尻秀隆ら(あるいは池田恒興)に殺害を命じており、清洲城の次の間で、、織田信行は暗殺された。(享年22歳) 

織田信長を謀殺しようとして返り討ちにあい、織田信長の目の前で自刃したとする説もある。  

 こうして、家内の最大のライバルを消し去った信長は、その後、同族どうしで争ってきた尾張の国を統一し、いよいよ天下取りへと進んで行きます。  

なお、織田信行の子である坊丸(後の津田信澄)は、土田御前の助命もあり許され、柴田勝家の許で養育された。 

津田信澄は、織田家一門の中でも信頼が厚く、安土城の造営においては丹羽長秀と共に普請奉行を務め、四国攻めの際には大阪城の守備も任されたが、明智光秀の娘を正室に迎えていた為、1582年6月2日の本能寺の変では内通を疑われ、6月5日に織田信孝と丹羽長秀により襲撃され殺害され堺の町外れに梟首とされた。享年は25とも28とも言う。

津田信澄の正室は明智光秀の実子で玉子(ガラシャの)姉でございます。