高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)

武田勝頼と徳川家康の間で戦われた高天神城の2度の攻城戦を指す。

天正九年(1581年)3月22日、徳川家康が武田勝頼配下の岡部元信が守る遠江・高天神城を落とした高天神城の戦城を落とした戦いがありました。

遠江(静岡県西部)と駿河(静岡県東部)の国境の位置に建つ高天神城(たかてんじんじょう・静岡県掛川市)・・・。

鶴舞城とも呼ばれるこの城は、16世紀の初頭に築城され、戦国時代は小笠原氏の居城でありましたが、甲斐(山梨県)の国から南側へ進攻したい武田氏にとっては、喉から手が出るほど欲しいと思う城だったわけで、信玄が度々攻めるも、どうしても落せなかった城なのです。
武田信玄

天正二年(1574年)に、この念願の高天神城を奪取した勝頼が、それを栄光のシンボルのように思った事は確かでしょう・・・なんせ、父・信玄が落とせなかった城を手に入れたのですから・・・

勝頼は、この城を、勇将の誉れ高き岡部元信に守らせ、重要な戦略拠点としたのです。
岡部元信

しかし、翌年の天正三年(1575年)に起こった、先の長篠の合戦で、やはり、重要な南の拠点であった長篠城(愛知県新城市)が、織田信長との強力タッグを組んだ徳川家康に奪われ、勝頼と、信玄時代からの古い家臣との間の溝は、ますます深まります。

そんな中、天正六年(1578年)に、あの上杉謙信が亡くなり、天下の情勢は大きく信長へと向く時代となっていき、さらに勢力下降気味の武田氏にとって、国境=甲斐中心部から離れた位置にある高天神城の維持が難しくなってくる・・・という家康に恰好の展開となってきます。
徳川 家康

天正七年(1579年)10月・・・わずか1ヶ月前に、妻・築山殿と息子・信康を死に追いやってまで、武田との敵対をあらわにした家康は、いよいよ、高天神城・攻略の準備に入ります・・・それも、家康らしく、慎重に慎重を重ねて・・・。

翌年・天正八年(1580年)には、この城を兵糧攻めにすべく、周辺の三井山などに、六つの砦・対城(ついのしろ・攻撃の拠点とするための仮の城などを構築し、さらに深い水堀、何重にも連なった大柵を築きます。

「鳥も通わぬ」と称されたこの包囲網に、さらに、勝頼からの援軍に備えて、一間ずつに番兵を配置しました。

城を守る元信以下約1000名の城兵は、弾薬も兵糧も運び込めない状態の籠城戦となりましたが、さすがは勇将の元信・・・その采配は、見事で、徳川軍の度々の攻撃にも、その都度撃退し、耐え抜いていました。

しかし、もはや、それも時間の問題である・・・しかも、勝頼からの援軍も望めない状況となるに至って、元信らは決意を固めます。
こうなったら、降伏をして開城するか、城を枕に討死するか・・・かくして、完全包囲されてから10ヶ月持ちこたえた天正九年(1581年)3月22日・・・彼らは、後者を選びます。

この高天神城最後の戦いは、籠城していた元信から仕掛けたのです。

その日の午後10時、夜陰にまぎれて2手に分かれて出撃します。

・・・というのも、この高天神城・・・海抜132mの山の上に建つ山城なのですが、その峰は上部で東西に分かれており、その二つは独立した構造となってしました。

東に本丸・御前曲輪・三の丸、西に二の丸・西の丸など・・・と、どれも広い曲輪ではないうえ、斜面はどこも急な勾配だったのです。

まずは、西の丸から出撃した城主・岡部元信が率いる約500の軍勢・・・北西側に構築されていた空堀をなんなく通過し、その向こうを守っていた大久保忠世(ただよ)隊と接触!
大久保忠世

決死の覚悟の岡部隊に推された大久保隊は、やむなく一時撤退するのですが、そこに南側を守っていた大須賀康高隊が救援に駆けつけ、数に劣る岡部隊は、城へと押し戻される形となり、その混乱の中、勇将・元信は討死します。

一方、岡部隊と同時に本丸から、北西に向かって出撃したのは、残る約500の兵をまかされた江馬(えま)直盛が率いる軍勢・・・本丸北西部の勾配は特に急になっており、断崖絶壁を綱づたいに降りていく彼らでしたが、その真下には、徳川方が構築した2重の堀が設けられているうえ、その場を守る石川康道隊と激突します。

さらに搦(からめ)手横を守っていた水野勝成隊、その東側を守ってした鈴木重時隊が、石川隊を加勢します。

なんせ、徳川方は総勢5000いますから・・・。

ここでは、徳川方の圧勝・・・江馬隊の中には、水堀にて溺死した者も多数いた。

この間に、徳川方の正面部隊である松平康忠(家康の義弟)率いる部隊が大手門をぶち破って、城内に侵入し、城へと戻されつつあった、先の岡部隊の生き残りを討ち果たします。

もはや、城の北西部へ撃って出た岡部隊も江馬隊も全滅状態・・・しかし、この間にわずか50名の小隊で、西の丸から南西方向へ出撃した横田尹松(ただとし)隊・・・。

もちろん、徳川方の包囲は「鳥も通わぬ」わけですから、彼らの向かう方向にも、守りの兵はいたわけですが、その小隊ゆえのこまわりの良さをうまく利用し、彼らは、わざと徳川方の兵の少ない険しい山道を駆け抜けます。

そう、彼らの使命は、敵を倒す事ではなく、この包囲網を突破する事・・・。

しかし、それも決死の使命には変わりません。

彼ら50名のうち、尹松を含む、わずか11名が信濃・伊那方面への脱出に成功し、甲府の勝頼のもとへと走ります。

尹松らから、高天神城・陥落のニュースを聞いた勝頼は、死を覚悟した壮絶な最期の一部始終を、ただただ涙を流しながら聞いていたと言います。
武田勝頼

自分が唯一、父に誇れるこの城を失った勝頼の悲しみは、勇将・元信の死とともに、心に、深い傷を与えた事でしょう。

なお信長はこの城攻めにあたり、家康に対して「高天神城の降伏を許さないように」という書状を送っている。

信長は勝頼が高天神城を見殺しにしたという形にすることで、武田氏の威信が失墜することを狙っていたようである。

また、書状の中で信長は「武田四郎分際ニては、重而(かさねて)も後巻成間敷(うしろまきなるまじく)候哉」と、勝頼はとうてい救援に来られないだろうと読んでいたのである。

この包囲によって城兵の大半が餓死。

3月25日午後10時頃、武田軍はついに城から討って出るが徳川軍はこれに応戦し、岡部元信と兵688の首を討ち取った。

この高天神城の戦いは、まさに、武田氏の滅亡へのカウントダウンが始まった合戦と言えるでしょう。