長岡京(ながおかきょう)
山城国乙訓郡(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)にあった古代日本の都城。
宮域跡は向日市鶏冠井町(かいでちょう)に位置し、「長岡宮跡」として国の史跡に指定されている。
延暦3年(784年)11月11日に平城京から遷都され、延暦13年(794年)10月22日に平安京に遷都されるまで機能した。
710年に遷都された平城京。
794年に遷都された平安京。
その間に784年に遷都された長岡京があります。
桓武天皇は平城京から平安京へと都を移した。
しかし、実際には桓武天皇は平安京に都を移す10年前に平城京から長岡京へと都を移し、その僅か10年後に長岡京を捨て、平安京へと都を移しております。
桓武天皇は、なぜ、たった10年で長岡京を捨てたのか?
それは、「怨霊が怖かった」からである。
長岡京へ都が移されてまもなく桓武天皇の優秀な部下であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)という人が暗殺されてしまいます。
この種継という人は長岡京遷都プロジェクトの推進派だった為、犯人は遷都反対派の仕業であろうと大伴継人、佐伯高成らと共に桓武天皇の弟である早良(さわら)親王までもが捕らえられます。
しかし、早良親王はこれを完全否定。
無実であると訴えて絶食までし、淡路への流罪の途中で衰弱し死んでしまうのです。
その後、桓武天皇のまわりで恐ろしい災いが続きます。
まず、夫人の藤原旅子が病死。
続いて生母の高野新笠が死亡。
ついには、皇太子の安殿親王までもが重病となってしまいます。
その間、長岡京は2度も洪水に襲われ、飢饉や疫病が発生。
さすがに、ここまで不幸が続くのはおかしい。
これらは、早良親王の祟りではないかと噂がたつようになるのです。
そして、桓武天皇は呪われた長岡京を捨て、平安京へと都を移します。
しかし、それでも異変が収まることはなく、都を移す直前に安殿天皇の妃である藤原帯子が急死してしまいます。
実際、桓武天皇が本当に早良親王の怨霊を恐れて、都を移したのか?
それとも2度も洪水に襲われるような場所をお金と労力を裂いて再建させるより、新しい都を開いたほうがいい、と判断したのか?
その辺りは謎です。
しかし、実際、桓武天皇は早良親王の霊を沈めるための儀式を行ったり、早良親王の霊を沈めるための寺を建てたりと怨霊を恐れていたことは事実なのでございます。