足利 義満(あしかが よしみつ)

室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。

父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。

南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。

義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。

のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。

1358年、足利尊氏の死去した翌年に生まれた足利義満(あしかが よしみつ)。
義満

彼は、室町幕府の3代将軍となると、その政治力をいかんなく発揮していきます。  

尊氏が新たな天皇を立てて、強引に開いた室町幕府。
足利尊氏

これにより、天皇は2人となり世は南北朝時代と国が2つに分かれてしまっていました。

そんな状態ですから、幕府の命令に素直に従う大名もまだ多くはなく、大名らは自らの利権の為、北朝に味方したり、南朝に味方したり・・・。  

その大名達を義満は次々にまとめあげていきます。

1390年には土岐(とき)氏を滅ぼすと、1391年には山名(やまな)氏を倒します。  

そして、初代尊氏、2代目義詮とまとめることの出来なかった南北朝をひとつにまとめ上げることに成功するのです。  

しかし、この時、足利義満が用いた方法はちょっとズルイ・・・。  

1392年、この時期は南朝がもっとも衰えていた時期。

一方、室町幕府(北朝側)は、3代将軍足利義満により最盛期を迎えようとしていました。

そこで、義満は南朝側に提案を持ち出します。  

「これからは、南朝と北朝とで交互に天皇を立てることにしましょうよ。

とりあえずは、北朝からはじめたいので、天皇の位の証拠でもある三種の神器を渡してください。」  

これを南朝側の後亀山天皇は受け入れます。
後亀山天皇

しかし、義満は始めからこの条件を守るつもりなどありません。

一度受け取ったが最後、もう南朝に天皇の座を渡すことはないのです。

足利義満は、兵を一人も犠牲にすることもなく南北朝をひつとにまとめ上げます。  

さらに、義満は経済面でも、その能力を発揮します。

日明貿易です。  当時は、倭寇(わこう)といって日本の海賊が東シナ海にはびこっていました。

明は、この倭寇をどうにかしてくれ、と日本に求めます。

義満は、これを引き受けますが、ついでに明との貿易を始めます。

この貿易では、勘合という合わせ札が使われていたために、勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれます。

この日明貿易。実は、明に臣従する形であった為に国内では、反発の声もあったといいますが、義満は、そんなことより貿易の莫大な利潤を重視したようです。  

また、足利義満で有名なのが金閣寺です。この派手な建物を別荘としていたというからスゴイ人です。
 

これら、金閣寺や日明貿易で有名な足利義満ですが、実は息子を天皇の座に付け、自身は太上天皇(本来は皇位を後継者に譲った天皇の尊号)につこうとしていたとも言われています。

義満の母方には天皇家の血が流れており、これはかなり実現性の高い計画だったそうです。

実際、足利義満の位牌には、太上法王の戒名がついていますので、天皇にかなり近いところまでいっていたと思われます。  

大きな野望を抱き、政治、経済とカリスマ性を存分に発揮した足利義満でしたが51歳で急死することになります。

この足利義満の死は、義満にとって実にタイミングが悪く、暗殺説も古くから疑われています。  

その暗殺説の理由が足利義満は天皇になろうとしていた。

そして、実際、かなり近いところまでいっていたという事実です。

義満が、いよいよ息子を天皇の座につけようという時に急死です。  

だれかが、天皇家のっとりを食い止めようと暗殺したとしても不思議ではありません。    

足利義満は、1394年に将軍の座を長男、義持に譲り、自身は太政大臣に昇進しました。

武家として最高位の征夷大将軍と公家として最高位の太政大臣をともに務めたことになります。

さらに、半年後には、太政大臣をやめ、今度は出家して宗教界をも手中に収めようと考えます。  

また、足利義満は1401年は遣明使を派遣しますが翌年、明から「日本国王源道義」という返書をもらっています。

道義とは出家した義満の法名です。

明から国王としての返書を貰っていたのです。  

当時、義満の権力がいかに大きかったかがわかるエピソードです。  

あの有名な金閣寺の造りにもメッセージが含まれていると囁かれています。

金閣寺の造りは1階が公家の好んだ寝殿造り。

2階が武家造り。

3階が禅宗仏殿造りとなっています。

これは、俺は公家よりも武士よりも天皇よりも偉いんだぞ!

という義満のメッセージだともいわれます。  

このように当時大きな権力を握っていた足利義満。

1408年4月25日には、自身の息子の元服の儀を宮中で行うのですが、この時、「うんげん緑」といわれる天皇と上皇のみしか座ることを許されないといわれる畳を用意させ天皇、上皇と同じ作法で対面しました。

いよいよ、息子を天皇にし、自身は上皇として君臨するという筋書き通りにことは進んでいくのです。  

しかし、息子の元服の儀から2日後の4月27日。

足利義満は、病に倒れ、5月6日には急死してしまいます。

通説では、風邪をこじらせ急性肺炎になったといわれていますが、なにしろタイミングが良すぎる。  

天皇家を守ろうと誰かが義満に毒を盛り暗殺したと言う方が納得がいくといったところです。  

とはいえ、現在、足利義満が暗殺されたという証拠は出てきておりません。

ただ、タイミングが良すぎるだろ!というだけです。

外傷などもなく、4月27日から徐々に弱っていった様子も伺えることから暗殺であったとしたら毒殺という説が一般的です。  

死後、足利義満は朝廷から太上法王の称号を送られますが、これは周りからの説得もあり息子の義持により辞退しております。

金閣寺

ホント、もう一歩で天皇の位というところまできていたんですよね。

金閣寺まで建てた足利義満は、戦国時代の人気ランク外で人気ZEROである。