姉川の戦い(あねがわのたたかい)

戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日/グレゴリオ暦8月9日)

近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦である。

元亀元年(1570年)のこと。織田信長は、朝倉義景(あさくら よしかげ)を討つために兵をあげました。

朝倉氏と浅井氏は、強い同盟関係にあったため、織田信長が朝倉氏を攻めれば浅井氏も動く・・・。

しかし、織田信長は、それはないとタカをくくっていました。  

なぜなら、信長の妹、お市は浅井長政の妻となっており、観音寺城の戦いでも織田信長と浅井長政は、共に戦っている。

しかし・・・手筒山城(てづつやま)を攻め落とし、金ヶ崎城(かねがさき)を降伏させ、いよいよ朝倉の本拠地を攻めようかという時、浅井長政が朝倉氏の加勢についてしまった。  

浅井長政にとっては、織田信長との縁戚関係よりも朝倉義景との主従関係のほうが強かったのだ。

一転危機におちいった信長。

ここは、退却しかないと決断をくだすのですが、進軍よりもむしろ退却の方が難しいともいわれています。

しかし、その退却の最後部を努めたのが、あの豊臣秀吉。

秀吉は、参戦していた徳川家康と協力し見事追っ手を撃退。

上手く逃げ切ることに成功するのですが、しかし、織田信長は、浅井の野郎、許さん!と怒りを爆発させるのでした。
 
軍を整えなおした信長は、報復戦にうってでます。

とはいえ、浅井長政の城、小谷城は、難攻不落といわれる城。

信長の出した答えは、城攻めではなく、城から引きずりだして、野戦で勝負という考えです。

信長は、横山城という城を包囲。

この城は、近江を南と北を結ぶ重要な場所。

ここを信長に抑えられると浅井氏の勢力は分断されてしまう。

この横山城を見捨てることのできない浅井の軍は、横山城の付近を流れる姉川に兵を出してきたのです。  

浅井の軍は5000~8000。

これに、朝倉の軍、8000~10000が加わり13000~18000の兵、対する織田軍は20000~23000。

援軍の徳川軍が5000~6000。  

この兵が姉川を挟んで、織田VS浅井、徳川VS朝倉でにらみ合う形になりました。  

徳川軍は、5000~6000の兵。

対する朝倉軍は8000~10000。

兵の数では、不利な徳川軍でしたが、朝倉軍は総大将、朝倉義景が出陣してこなかったこともあり、徳川軍有利に進みます。

しかも、徳川には大久保忠世、本多忠勝、榊原康政らといった屈強な武士がそろっている。  

一方、織田信長の軍は、約2万の兵(内5000は、横山城の包囲に回っていたので実質15000)。

浅井の軍は5000~8000と余裕で織田軍の勝利かと思われましたが、自分たちの城を取り返すという意気込みで浅井の軍はめちゃ強い!  

織田の軍は、13段の構えをとっていましたが、11段まで崩され、一時は姉川から1キロも退却。

しかし、その時、少ない兵で朝倉を勝利目前まで追い込んでいた徳川の軍1000ほどが援軍に来る!

彼らは、浅井軍の右翼に突入。

さらに、横山城の包囲についていた兵も信長のピンチを聞きつけ左翼に突入。  

この激戦は9時間続き、姉川は血で赤く染まっていたといいます。  

徳川家康に助けられる形で姉川の戦いに勝利した織田信長。

その後は、横山城を完全に攻め落とし、秀吉を城主とします。

小谷城も勝利の勢いにのって攻め落とすことも考えたと思われますが、(実際、敗走する兵を追って小谷城50里ほどまで攻めている)織田の軍の被害も少なくはなく、一気に攻め落とすことは得策ではないと判断したのである。