永禄9(1566)年、氏真は「井伊谷徳政」を発布しました。

しかし直虎はこの徳政令にストップをかけました。

もし、井伊谷徳政が実施されると井伊領の支配者が今川に移り、井伊家の存続が危うくなってしまいます。

大きな政治問題に直面しますが、直虎は2年間、この徳政令を拒否し続けました。

徳政令(とくせいれい)

日本の中世、鎌倉時代から室町時代にかけて、朝廷・幕府などが土倉などの債権者・金融業者に対して、債権放棄(債務免除)を命じた法令である。

徳政令ってのは、早い話が借金帳消し令ということです。
 

債権者に債権放棄を命ずる法律です。

永仁の徳政令は、借金苦の御家人を救済するのが目的でした。

元寇の際に戦費の自己負担を強いられ、恩賞がなく、困窮した御家人が自分の領地を売り払ったり、土地を担保に借金したりするのを防ぐのも目的でした。

御家人が路頭に迷い、鎌倉政権の体制が崩壊するのを防ぐのが目的でありました。

そして、貧困に苦しむ農民がその徳政令を求めて行ったのが土一揆です。

こっちはより直接的に、貧乏人たちが何とかせい、と暴動を起こすことです。

戦国時代でも徳政令が出された例はあります。

徳政令を出したのは、甲斐国を治めていた武田信虎。武田信玄の父親です

信虎は甲斐国一帯を対象とした徳政令を出しています。

「おんな城主 直虎」でもの中でも、直虎が農民に徳政令を出しています。

この時期井伊谷では戦が絶えませんでした。

農民も戦に駆り出されていたのでした。

男手を失った井伊谷の農民たちは、手が足りず新しく土地を耕すことができません。

その結果、田畑は荒れていきます。

生活に困窮した農民たちは、商人から借金をするしか生き残る術はありませんでした。

返すあてのない借金はどんどん膨らんでいきます。

自分の田んぼや畑を担保にどんどんかさむ借金。

そういう状況で頼ったのは、領主である井伊直虎。

農民たちが助かるには徳政令しかなかった。

だけど、徳政令を出すと井伊家はつぶれるんですよね!

直虎が簡単に出すといった徳政令。

徳政令を出すとなぜ井伊家がつぶれてしまうのか。

実は、井伊家も銭主に借金をしています。

銭主の経済力あってこそ家が成り立っていたのです。

徳政令を出すと、農民が銭主にしている借金は帳消しになります。

しかし、同時に銭主の力も低下してしまいます。

これは井伊家にも打撃を与えます。

徳政令を出して銭主がつぶれてしまうと、銭主に頼っていた井伊家も立ち行かなくなります。

つぶれる可能性が出てくるのです。

しかし徳政令を出さないと農民たちが一揆をおこす可能性が高い。

井伊直虎は、この二つの間で悩むことになります。

そんな中、井伊直虎が出した結論が後の世まで直虎の名前が轟くことになるのです。

「おんな城主 直虎」の中で、直虎が農民に出すと約束した徳政令。

しかし井伊家の内情を知った直虎は一転、徳政令は出せないといいます。

徳政令を出すと井伊家がつぶれてしまうから。

意気消沈した農民たちは、直虎に頼ることをやめ今川に頼ることにします。

井伊家の上の立場の今川に徳政令を頼むことによって、徳政令を願ったのです。

このことにより直虎は窮地に立たされることになります。

井伊家を乗っ取りたい政次にとって、徳政令はかっこうの材料だった。

農民からの訴えを受けた今川氏真は、直虎に対して徳政令の発動を命令します。

この今川家が命令したのは1566年です。

今川から徳政令の発動を命令された直虎。

しかし徳政令を出せば井伊家はつぶれてしまう。

そこで直虎が出した結論とは「徳政令の発動を遅らせる」。

結論を言うと、直虎は徳政令を発動させます。

しかし、今川から徳政令の命令を受けた直虎は、井伊家をつぶさないために銭主の保護を優先します。

しかし普通に「徳政令出しません」と今川に言うと、全面戦争になりかねません。

直虎は「銭主の説得に時間がかかる」という理由で、徳政令の発動まで時間を稼ぎます。

その間に徳政令が出ても大丈夫なように準備を進めます。

ちなみに井伊家の菩提寺である龍潭寺も担保に入っていたそうで、徳政令を遅らせることでなんとか守れたんですよね。
 

「何年になったら徳政令発動させるんだ」と堪忍袋の緒が切れた今川氏真は、井伊谷に家臣を派遣します。

そこで、半ば強制的に直虎に徳政令を出す書類にサインさせます。

この直虎のサインは、浜松市にある蜂前神社今でも保管されています。

直虎が徳政令を発動したのは1568年何年、今川から命令を受けた2年後です。

そして、直虎は徳川家康に臣従する道を選び、井伊家を守り抜いたのである。