ムハンマド  570年頃 - 632年6月8日

イスラーム教の開祖、軍事指導者、政治家。

アラビア半島中西部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。

イスラーム教では、モーセ、イエスに続く、最後にして最高の預言者(ナビー)でありかつ使徒(ラスール)とみなされている。

また世俗君主・軍人としても有能であり、アラビア半島にイスラーム国家を打ち立てた。

6世紀以前に中国とヨーロッパを結び交渉経路として活躍していたのは、「シルクロード」です。

ところが、6世紀になると、そのルート上にてササン朝ペルシアとビザンツ帝国(東ローマ)の抗争が激しくなっていきます。  

商人達にしてみたら、そんな危ないところ通りたくありません。

ですから、今度は「海のシルクロード」を利用するようになるのです。

イスラム教 ササン朝 東ローマ  これに恩恵を受けることになったのが、アラビア半島の都市メッカです。

海のシルクロードでは、インド洋から紅海へ入り、アラビア半島の西海岸沿いを北上するルートが使われていましたが、その中継都市がメッカだった。
 
 しかし、メッカにて実際に儲かっていたのは一部の人のみ。

逆に物価の上昇などをもたらし、多くの人がかえって貧しくなってしまい、アラブ人の間では貧富の差が広がっていくことになります。  

そんな中で生まれたのがムハンマドによって開かれたイスラム教でした。  

ムハンマドが生まれた時、すでに父親は病気で亡くなっていたため貧しい生活を送っていました。

そして、ムハンマド6歳のころには母も亡くなってしまい、孤児となったムハンマドは、祖父、ついで父方の叔父に育てられました。  

12歳の頃には、この叔父の商売の手伝いをしてました。

これは、シリアというところまでラクダに乗って皮製品や象牙、香料などを運び、シリアでは麻、綿、オリーブ、ぶどう酒などを買い付けて戻ってくるという仕事ですが、途中で遊牧民などの略奪にあう可能性もありとても危険でした。

しかし、その反面、利益率はかなり高いので、自分達で隊商を組んで武装の護衛をつけたり、金を出して隊商をつくらせたりと手広く商売をすればかなり儲かったんだよ!

25歳となったムハンマドは、裕福な未亡人ハティージャが出資した隊商を任されシリアに向かいます。

この時の縁でハティージャとムハンマドは結婚することになりました。

ムハンマドは、その後も商人としてたびたびシリアに訪れていましたが、この時にユダヤ教やキリスト教を知ることになります。

そうして、ムハンマドは、当時アラブ人たちが信仰していた多神教や偶像崇拝が堕落の原因であると考えるようになりました。

その頃は、愛や美、太陽、友情など様々な神が信仰されていたのです。

また、ご神体として聖木だとか岩や石も祭られたりしていたのですが、当時のアラブの経済状況は貧富の差が広がり、部族抗争など多くの問題を抱えていたのです。

これらの問題を何一つ解決してくれないじゃないか!

当時アラブで信仰されていた宗教に不満を抱いていたのです。  

ムハンマド40歳の頃、彼に転機が訪れます。

610年メッカから5キロほど東北にあるヒラー山の洞窟にて瞑想にふけっていた時のことです(ちなみにムハンマドは毎年、ひと月ほど山にこもり瞑想していました)。

彼のもとに天使ガブリエルが現れ神の言葉(啓示)を受けることになります。
 
 ムハンマドにしてみたらビックリでした。

しかし、その後も幾度となくムハンマドは神の啓示を受けることになります。

とはいえ、もしあなたが突然、神様に「私の言葉を皆に伝えよ」といわれても自信ありません。

ムハンマドも同じで、まず最初の信者となったのが奥さんのハディージャでした。

その後も初めは特定の人に、その後、少しづつメッカの人々の間に広まっていくことになります。  

このムハンマドが受けた神の言葉が後に聖典にまとめられ「コーラン」とされます。

このイスラム教の教えは、当時アラブの人たちが信仰していた神々の中で、最高神とされるアッラーを唯一の神とし、アッラーの前では人は皆平等と非常にわかりやすいものでした。

ムハンマドは、メッカでのイスラム教布教に努めますが、10年の間で広まった信者の数は100人ほど。

にもかかわらず、大商人たちからは危険視された為、ムハンマドは622年7月16日には信者と共にメッカを出てヤスリブに移住しイスラム教発展の基礎を築きました。

イスラム教では、この移住を「ヒジュラ(聖遷)」と呼び後に622年はイスラム暦元年となります。

ムハンマドは預言者としての立場ばかりでなく、政治家・司令官・立法者等の立場も兼ね備えていくことになる。

その後メッカとの戦いを経て、メッカを征服した。

またいわゆるメディーナ憲章を作り、宗教共存の安全保障体制を確立した。

ムハンマドは632年に大巡礼を行い、後にそれが別離の巡礼と呼ばれるようになった。
この巡礼には10万人の信徒が参加したと言われている。

この機会に、古来行われてきた巡礼の行を再確認するとともに、ムハンマドはそれを、多神教時代の名残ではなく、アブラハム以来の儀礼として再定義をした。

このとき定められた巡礼の儀礼が、今日に至るまで実践されているのである。

632年6月8日にメディーナのモスクに隣接する自宅にて、ムハンマドは没した。およそ62年間の人生であった。