サラエボ事件(サラエボじけん)

1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人(ボスニア語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。

この事件がきっかけとなって、第一次世界大戦が開戦した。

ヨーロッパのキリスト教世界は、カトリックを中心とする地区と、正教会を中心とする地区があります。

ボスニアは、カトリックも正教会も、決定的な影響力を持つことが無く、カトリック教徒、正教徒、ボスニア独自のボスニア教会の信徒が渾然としていた地域でした。
カトリック教徒は、クロアチア人、正教徒は、セルビア人、ボスニア教徒は、ボスニア人と言い、基本的には同じ民族でしたが、クロアチア人は、ハンガリー支配下のクロアチアとの関係が深く、セルビア人はセルビアと、ボスニア人は、トルコ支配下でイスラムに改宗し、トルコとの関係が深い人達でした。
トルコがバルカン戦争に敗れると、ボスニアの帰属が問題となります。
クロアチアを支配するオーストリア・ハンガリー帝国は、ボスニアをオーストリア領にしようとします。
ボスニア内のクロアチア人も同調しますが、セルビア人は、セルビアへの帰属を望みます。
そんな状態で、オーストリアが強引に併合してしまったため、ボスニア内のセルビア系住民が反発することになります。
オーストリア皇太子フランツ・フェルディナンドは、その併合の式典に参加していて、暗殺されました。

当初から、サラエボにてなにかの事件が起こりそうだという噂が広がっており、一部には、皇太子の出席を見送る話もありましたが、フランツ・フェルディナンドの強い要望により、式典に参加することになります。

フランツ・フェルディナンドが、強くサラエボ行きを主張したのは、妻ゾフィーのためでした。
ゾフィーは、チェコ人の下級貴族の娘で、オーストリアでは、皇太子妃としてみとめられず、2人の間に子が生まれても、皇位継承者として認めないことにされ、公式の場での同席も禁じられていました。

フランツ・フェルディナンドは、妻の影響もあり、オーストリア支配下のチェコを独立させ、オーストリア・ハンガリー・チェコ帝国にする考えを持っていました。

そのため、オーストリアの宮廷では、フランツ・フェルディナンドが皇帝になる事を阻止しようとする勢力が大きな力を持っていました。
サラエボでの式典に、妻ゾフィーと同席できることが決まったため、フランツ・フェルディナンドが、強引にサラエボでの式典に参加することにしました。

「オーストリアの皇太子がサラエボという当時オーストリア領(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中に、セルビア人によって暗殺された事件」です。

プリンツィプはセルビアの分離独立を目指す革命組織プリンツィプはFN ブローニングM1910を取り出し車に近付き、1.5メートルの距離から発砲した。

プリンツィプは1発目をゾフィーの腹部に、2発目をフランツ・フェルディナントの首に向けて発砲し、車は総督官邸に逃げ込んだが、夫妻は午前11時前に死亡した。

開戦のきっかけは1914年6月28日に起きた、セルビアの青年によるオーストリア皇太子夫妻の暗殺です。

サラエボ事件でガヴリロ・プリンツィプが暗殺に使ったM1910。
暗殺が起きた地名から「サラエボ事件」とよばれます。

(事件が起きた現場には今、博物館が建っています)

暗殺に成功したプリンツィプは青酸を飲んで自殺を図るが、不良品だったため効果がなく拳銃自殺を試みようとするが、発砲前に群衆に取り押さえられた。

プリンツィプは裁判にかけられハプスブルク家の法に基づき死刑を求刑されるが、犯行時20歳に達していなかったため死刑を免れ懲役20年の刑を宣告された。

プリンツィプはテレージエンシュタット要塞刑務所(現在のチェコ共和国テレジーン)に収監されるが、第一次世界大戦末期の劣悪な刑務所環境のため持病の結核が悪化し、サラエボ事件から3年10か月後の1918年4月28日に獄中で病死した。

プリンツィプは獄中で結核性脊椎症の悪化のために右腕を切断しており、また、栄養失調も重なり死亡時には体重が40キログラムしかなかった。

死後、遺体は民族主義者の聖地になることを避けるためサンメルコ墓地に秘密裏に埋葬された。

しかし、埋葬に立ち会ったチェコ人兵士によって1920年に「セルビア人の永遠の英雄」と書かれた記念碑が墓地に立てられている。

サラエボ事件から100周年を迎える6月27日に除幕式が行われ、会場では拍手が巻き起こり、プリンツィプのTシャツを着た見物人などが銅像を一目見ようと集まった。

2015年6月28日にはベオグラードにプリンツィプの像が建てられた。

この像はスルプスカ共和国大統領ミロラド・ドディク)からセルビア大統領トミスラヴ・ニコリッチに贈呈されたものだった。

ニコリッチは像を贈呈された際に「プリンツィプは英雄であり、ヨーロッパにまたがる暴君・殺人者による奴隷支配からの解放の象徴である」と声明を発表している。

まさに、テロリストでも英雄とよべれているんですよね。

1カ月後、オーストリアがセルビアに宣戦布告すると周りの国々が次々と参戦。

ロシア、フランス、イギリスなど連合国と、ドイツ、オーストリアなど同盟国にわかれて戦いました。

日本は、第一次世界大戦に連合国の一員として参加,とはいっても日本はヨーロッパでの大きな戦闘に加わっていなです。

日本は日英同盟を理由に,第一次世界大戦に日本が自ら手をあげて参戦したのは,もちろん義理や人情の話ではありません。

戦争を利用して利益を得ようとしていたからです。

中国での勢力拡大をねらっていた日本にとって,第一次世界大戦は大きなチャンス。

日本は,ヨーロッパ諸国が戦争に気を取られているスキに,中国へ進出してドイツが持っていた権益を奪っていったのです。

ヨーロッパでの戦闘せんとうに、(こっそり)アジアにあるドイツ基地きちを攻撃こうげき。

世界中の国々に軍事品など輸出ゆしゅつしまくって (たっぷり)大もうけ!

「第一次世界大戦」がおこなわれていた最中の 1915年~1918年の間は日本の輸出が、輸入を上回っていました。

まあ、こんなふうに日本は、ずるがしこく利益りえきをあげていました。

ある時、お店の女性「暗くてクツがどこにあるのか見えないわ・・・。」

成金「ほら、こうすれば見えるだろう。」

そう言って、成金オジサンが100円札さつに火をつけています。

(当時の100円は、今の100万円ぐらいの価値かちです!)

「ありえない、何をやってるんだ~!」って感じだけど、それぐらい、この第一次世界大戦で、大もうけした人がいるんです。

最後はアメリカの助けもあり、連合国が勝利しますよ。