第一次木津川口の戦い(だいいちじきづがわぐちのたたかい)

1576年(天正4年)に毛利氏と織田氏との間に起こった戦い。

織田信長軍の攻囲を受ける石山本願寺への兵糧搬入を目的とした毛利水軍・小早川水軍・村上水軍を中心とする瀬戸内の水軍戦力と、それを阻止せんとする織田方の水軍戦力が大阪湾木津川河口(現在の大阪市大正区に位置する木津川運河界隈)で激突した。

実際の戦闘では毛利方の水軍の使用する焙烙玉・雑賀衆の使用する焙烙火矢の前に織田方の水軍は壊滅的な打撃を受け、石山本願寺への兵糧搬入という当初の目的を毛利方が果たす結果となった。

信長は1570年~80年の11年間、各地の一向宗と血みどろの戦いを繰り広げた。

この一向宗の本山が大坂の石山にあったので石山本願寺戦争と呼ばれた。

1576(天正4)年5月、籠城を余儀なくされた本願寺の法主顕如は窮地に追い込まれます。

一説には4万近い門徒が籠城していたといわれています。

顕如はこの籠城後間もなく加賀の門徒と越後の上杉謙信の和睦を成立させ信長を牽制します。

信長と謙信は表向き友好関係を保っていましたが織田家が加賀南部二郡を支配したことにより西に勢力を伸ばす謙信とは一触即発の危機的関係になっていました。

7月13日、そのような状況の中、ついに中国地方の毛利水軍が出陣。15日、石山本願寺に兵糧を運び込むため大船800もの大船団が木津川河口に姿を現します。

水軍を率いたのは毛利配下の能島某・来島通総・児玉就英・粟屋大夫・及美宗勝。

これを阻止するため織田軍は真鍋七五三兵衛・沼野伝内・沼野伊賀・宮崎鎌大夫らが大船2~3隻を含む300の水軍を率い毛利水軍に対抗します。

一方、陸上では時を同じくして一揆勢が出撃してきます。

即座に天王寺砦から佐久間信盛が打って出ます。

戦いは数時間に及びました。

海上でも織田水軍と毛利水軍の戦いが繰り広げられます。

しかし、戦いは一方的な展開になります。

海上戦を得意とする毛利水軍は秘密兵器ともいえる“焙烙火矢”といわれる現代でいう手榴弾のようなものを作り、それを織田軍の船を包囲しては投げ込み炎上させるという作戦を展開します。

海上戦の不得手な織田水軍の船は次々と海中に消え、真鍋・沼野伝内・沼野伊賀・宮崎鎌大夫など主だった水軍の将が討ち死にしてしまいます。


織田水軍を壊滅させた毛利水軍は難なく本願寺への兵糧の運びいれを成功させ引き上げていきます。

この戦いで毛利水軍は一隻も失わなかったといわれています。

信長はあらたに保田知宗・塩井因幡守・伊地知文大夫・宮崎二郎七に海上警備を任命しますが、当然ながら毛利水軍対抗策を早急に講ずる必要に迫られていました。

「進むは極楽浄土、退くは無間地獄」を唱える一向宗信徒が捨て身だったとはいえ、信長軍は敗退の連続であった。

 織田水軍が毛利水軍を破るのはこの二年後のことになります。