「天目山の戦い」甲州征伐(こうしゅうせいばつ)

1582年(天正10年)、織田信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政が長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。

織田信長は、その同盟者である徳川家康・北条氏政らと共に、かねてより敵対していた武田氏を滅ぼそうとし、1582年(天正10年)、武田信玄の後を継いだ武田勝頼の領地、駿河・信濃・甲斐・上野に侵攻しました。

武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦のことを甲州征伐、または武田征伐といいます。

これに先立って、勝頼は天正8年に武田家に人質に取られていた織田信長の五男:織田信房を織田家に返還し、信長との和睦を試みました。
武田勝頼
しかし、信長はこれを無視し、さらには正親町天皇に「勝頼は朝敵だ」ということを認めさせて、武田氏討伐の大義名分を得ていました。

勝頼の妹の夫である木曽義昌は新府城築城による負担増大に対する不満から、信長軍に寝返ります。

これに怒った勝頼は義昌から預かっていた人質を殺し、さらに義昌に進軍しようとしましたが、雪のために進軍は困難を極めました。

そうこうしている間に、織田信忠・金森長近・徳川家康・北条氏直らが四方から武田領に侵攻してきました。

それと同時に浅間山が噴火し、武田軍は大いに動揺しました。

そもそも、裏切り者の木曽に対して怒っている場合ではなく、織田軍の侵攻などに備えておくべきでしたが、そんなことも冷静に考えられない状態にあり、またそれを進言してくれる家臣もいないとあっては武田軍が組織的に動けるはずもありません。

この後、さらに家臣の裏切りは続いてしまいます。

重鎮の裏切り武田領地である信濃伊那城の城主、駿河田中城の城主も織田軍が攻めてくると戦わずして降伏しました。

武田一族の重鎮である穴山信君までもが勝頼を見限り、信長に服属を誓いました。

この穴山の裏切りが武田軍に知れ渡ると、武田軍の者どもは人間不信に陥り次々と勝頼の元から逃げ出してしまいました。

天目山の戦い3月7日、織田信忠は甲府に入り、勝頼の一族や重臣たちを探し出して、全て処刑にしました。
織田信忠

勝頼は未完成の新府城を放火し、武田家の家臣である小山田信茂の居城である岩殿城に逃げ込もうとします。

しかし、ここでも小山田の離反にあいます。

勝頼は、次に天目山を目指して逃亡します。

3月11日に勝頼軍は、天目山のほど近くの田野という地で、織田家家臣の滝川一益隊と激突します。

この戦いでは織田軍3,000~4,000人に対し、勝頼軍はわずか43人ほどであったが、わずかな手勢でも勝頼家臣の土屋昌恒や小宮山友晴らが奮闘、織田軍を翻弄しました。

しかし、これが最期だと悟った勝頼は、3月11日巳の刻(午前11時頃)満36歳没、嫡男・信勝(享年16)、継室・北条夫人(桂林院・享年19)、家臣の跡部勝資らとともに自害しました。

勝頼の従兄弟である大竜寺麟岳(大竜寺住職)は、勝頼に自分の死を見届けて、菩提を弔うように頼まれましたが、これを断り、信勝と刺し違えて死去した。武田信勝 享年16。

これによって甲斐武田氏嫡流は滅亡し、勝頼親子の首は京都に送られ、梟首にされました。

後に徳川家康によって、菩提寺として景徳院が建てられ、勝頼は信勝、北条夫人とともに菩提が祀られています。