重信房子(しげのぶ ふさこ ) 日本の新左翼活動家

赤軍派中央委員、日本赤軍の最高幹部

1945年9月、4人兄弟の次女として、東京都世田谷区で生まれた重信房子。

重信房子ファンが存在するほどの美人だった!


父親の重信末夫さんが、もともと右翼団体の門下生だったことから、その思想の影響を強く受けて育った。


明治大学でも、学費の値上げに関して学生運動が勃発していたのですが、文学部で思想の強かった彼女も紛争に参加したとされています。

強いリーダーシップ、容姿端麗な美貌、そして行動力を持った重信は、学生運動の後、共産主義者同盟赤軍派の創立メンバーとなります。

日本赤軍の母体になったのは共産同赤軍派で赤軍派は、1969年11月の安保決戦時に、日本刀と爆弾で武装し、大型ダンプカー5台に分乗して首相官邸と警視庁に突入・占拠する計画だった。
が、直前の11月5日に、武闘訓練中の突撃要員のほぼ全員が警察に検挙されてしまう(大菩薩峠事件)。
結果、追い詰められた赤軍派残党は、海外に革命根拠地を求めることになる。

北朝鮮に根拠地を求め、1970年3月31日よど号をハイジャックしたのが田宮グループであり、その後、さらに政治運動にのめり込んだ重信は、パレスチナに赤軍の拠点を作ろうと考えます。


そこで、1971年に同じ政治運動家の奥平剛士(テルアビブ空港乱射事件の首謀者で、民間人ら23人も殺害したテロリストです)と偽装結婚し、ともにパレスチナへ移住することになります。

海外移住後、アラブで結成されたのが「日本赤軍」と呼ばれる組織。

赤軍といえば、街の警察署の掲示板に、指名手配の写真がよく貼られています。

赤軍組織のトップが、この重信。


赤軍派は京大、同志社、大阪市大、桃山学院大、東大医学部などが拠点で「頭のよい若者」だった。 

この日本赤軍は、パレスチナの過激派組織と連携して、海外で銃乱射事件や大使館襲撃事件、人質事件などを首謀していました。 

『日本赤軍』が起こした多くの事件の中でも、最も世界中から非難をあびたのが昭和47(1972)年5月30日 『テルアビブ空港乱射事件』。

パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の要請により、3人の『日本赤軍』メンバー(うち2人は大学生)が空港で自動小銃を乱射、手榴弾を投げて約100人の死傷者を出しました。
犯行メンバーの奥平剛士と安田2人は射殺、手榴弾で自爆。

残る1人(岡本公三)は現在もレバノンに亡命中。

当時は、テロリストが無差別に一般市民を襲撃することは前代未聞であり、事件は衝撃的なニュースとして全世界に伝えられた。

このテロが起こる前のテロは要人がターゲットでしたが、『日本赤軍』が起こしたテロは今も繰り返される一般人を巻き込む無差別テロのはしりだったと言われています。

『テルアビブ空港乱射事件』で、実行犯は 最初から死を覚悟して犯行に及んでいますが、この自殺的行為はイスラム過激派が自爆テロを『ジハード』と解釈するきっかけになりました。

そもそも『ジハード』は「努力や奮闘」という意味ですが、「異教徒との戦い」を指すということにも使われ、この部分が転じて『聖戦』という意味に訳されました。

自爆テロの実行犯が自分が仕掛けた爆弾で死んだとしても、同時に敵側の人間も多く殺傷できるので、これは『ジハード』になります。

そして、『ジハード』で死ぬと天国に行ける、とされます。

これが自爆テロに走る理由の一つです。

また、中東の多くの国は言論の自由などがなく、閉塞した社会に絶望している多くの若者が『ジハード』で早く天国に行きたい、という理由で死に場所を求めることもあります。

パリで同時多発テロが起こりましたが、一般市民を標的にした無差別テロを最初に実行し自爆テロで世界中のテロリストに影響を与えた自爆テロの生みの親は、『日本赤軍』で、日本人なのである。

そして、日本赤軍3名がオランダ・ハーグでフランス大使館を襲撃した「ハーグ事件」は、世界的にも有名です。

1974年9月13日に、日本赤軍の和光晴生と奥平純三、西川純が、オランダのデン・ハーグにあるフランス大使館を短銃で武装し占拠した。


この際にオランダの警察官2名が撃たれ重傷を負った。

事件には最高幹部の重信房子も関与していた。

犯人らは大使館員ら11名を人質にし、身代金として30万ドルと、日本企業の駐在員誘拐をもくろんだものの失敗し、フランス当局に収監中の日本赤軍メンバーである「山田義昭」の釈放を要求した。

オランダ政府は最終的に30万ドルを払い人質を解放、フランス政府は山田を釈放し、その後犯人グループは19日に逃亡先のシリアで投降した。

犯人たちはその後1975年のクアラルンプール事件にも関わります。

クアラルンプール事件、マレーシアのクアラルンプールAIAビル9階、アメリカ大使館領事部で、武装した男が乱射、警官1人が射殺された。

男らは立て篭もり、ロバート・ステビンズ領事ら50人を人質にして9階の出入り口を封鎖、スウェーデン大使館も占拠し、フレデリック・ベルエン・ストラレ代理大使らを人質にした。


犯人は日本赤軍で、日本政府に逮捕されていた7人の釈放を要求した。

西川純(24)京都産業大中退、日本赤軍 

戸平和夫(22)元会社員、日本赤軍 

坂東国男(28)京大卒、連合赤軍

坂口弘(28)東京水産大中退、連合赤軍

松浦順一(28)関西大卒、赤軍派M作戦 

松田久(26)茨城大中退、赤軍派M作戦隊長 

佐々木規夫(26)東アジア反日武装戦線狼

企業連続爆破テロ   折しも三木首相は訪米中で、井出官房長官が福田副首相らと8月4日、19:00から会議を開き、深夜にマレーシア政府に7人の釈放を伝えた。

しかし坂口と松浦は釈放されるのを拒否した。

残りの5人は8月5日、羽田空港の日航特別機「DC8-62型」に乗り込み、20:00に出発予定だったが、犯人らは坂口と松浦を呼ぶように要求、獄中の坂口は電話に出て、犯人に直接、釈放を拒否すると伝えた。

松浦は昨5月にノイローゼとなり保釈され、香川の善通寺市の実家に住み、近くの鉄工所で働いていたので、いまさらテロリストの仲間入りをするいわれもなかった。

日航機は14:33に出発、19:45(日本時間21:15)にマレーシアのクアラルンプールのスバン空港に到着した。   

大使館占拠の5人は、人質29人を解放、8月6日11:18(日本時間0:48)にビルを出て残る15人の人質とバスで空港に向かった。

人質の中にはユニチカの現地法人キマ(馬金)工場長で総支配人の西嶋久文(44)もいた。

空港で人質が交換され、15人の代わりに、越智啓介領事兼移住部長、村田良平参事官、マレーシアのオマール通信政務次官、カシム内務事務次官が日航機に乗り込んだ。

8月7日13:20(日本時間14:50)には空港ビルから1.5キロの滑走路西で、プラスチック爆弾を犯人らは爆発させて威力を誇示した。

この後、日航機は大使館占拠犯5人、釈放犯5人、人質4人と乗員9人でマレーシアを出発した。

8月8日3:15(日本時間10:15)にリビアのトリポリ空港に着いた犯人らは、人質と乗員13人を解放、犯人10人はリビアに投降した。

この日本赤軍の5人は、元会社員の丸岡修(24)、元慶大生の和光晴生(27)、元京大生の奥平純三(36)、元予備校生の山田義昭(26)、元大阪市立大生の日高敏彦(30)と思われたが、丸岡については別人説も流れた。

1976年にヨルダン入国の際に偽造旅券の容疑で日高敏彦とともに和光晴生と奥平純三(奥平剛士の弟)が逮捕され、10月13日に日本に移送される。

1977年9月28日に発生したダッカ日航機ハイジャック事件による犯人の要求で奥平純三が超法規的措置として釈放され、現在も国外逃亡しており、国際指名手配されている。

護送機に乗り込む奥平 純三

 
「ダッカ日航機ハイジャック事件」
1977(昭和52)年9月28日、日本赤軍が、ポンペイ発の日航機をのっとり、ダッカ国際空港へ強行着陸。乗員乗客156人を人質に同志の釈放を要求。

日本政府は「超法規的措置」で、釈放を決め、犯人側が要求した9人のうち出国を希望した奥平純三ら6人の出国と身代金6000万ドルの支払いを認めた。

これを、「ダッカ日航機ハイジャック事件」という。

ダッカ国際空港のあるバングラデシュではこの事件中に、軍部中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙間を縫って軍事クーデターが発生するなど、現地は緊迫していた。

のっとり犯の要求に対して、日本国政府は議論の末、10月1日に当時の福田赳夫首相(長男が、現・福田康夫首相)が「人命は地球より重い」と述べて、身代金の支払い及び、超法規的措置として赤軍派系連合赤軍メンバーなどの引き渡しを決断した。

なお、このとき、検事総長と法務大臣はこの様な「違法措置」の施行に対して強硬に反発し、閣内不一致を恐れた福田は福田一法務大臣を更迭している。

釈放に応じたメンバー6名

奥平純三(前年ヨルダンから強制送還され公判中。

奥平剛士の弟 日本赤軍。

城崎勉(共産同赤軍派。大菩薩峠事件で逮捕)

大道寺あや子(新左翼武装組織・日本赤軍)

泉水博(獄中者組合。一般刑事犯)

仁平映(獄中者組合。一般刑事犯)

6名。彼等は、10月1日、日本航空特別機でダッカへ輸送した。

犯人側は、ダッカ、クエート、シリアのダマスカスで次々と人質を解放しながらアルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に到着。人質を全員解放し、アルジェリア当局に投降した。

そして、これらの事件の首謀者として注目されたのが重信房子であり、国際指名手配されました。


重信房子の日本への不法入国~世界的な犯罪者となった重信房子ですが、偽造旅券を使って、日本に不法入国しているという疑惑が浮上しました。

そして、重信房子らしき人物が、大阪の西成区のマンションに潜伏しているとの噂があり、日本の警察が始動しました。

その捜査を担当したのが、アンビリバボーで特集された6人の捜査員「ZERO」。

彼らがどれだけ時間をかけてもなかなか手がかりが見つからず、捜査は難航した。

しかし、警察が監視していた坂口弘という人物が、重信さんと思しき人と接触したのを確認して、捜査は急展開。

重信さん特有のタバコの吸い方と似ている。


使用済みの珈琲カップの指紋が一致。

このような数々の証拠から、2000年にようやく逮捕に至った。

重信は、身柄を拘束された時、下の写真にあるように両親指を突き立てている。

あの美女の重信房子が、こんなババーになったことに一番、おったまげ、ですよね。
裁判では、懲役20年という判決が下され、現在服役中。

また彼女は、現在小腸がんを患って3回手術し、今は抗がん剤治療のため八王子医療刑務所にいる。

重信房子 現在70歳ですが、数々のテロ事件の首謀者として指名手配されていた。

刑期満了時の年齢を考えれば、実質、無期懲役に近い、大腸癌を患っているから、そこまで生きられないだろう。

過激な左翼学生運動は70年代で終わった。
理由は時代が変わったから。
車はもちろん、テレビもなければ洗濯機もない。
共同トイレに風呂なしの、4畳半の安アパートに住み、冷蔵庫がないから生ぬるいサントリーのホワイトをチビチビ呑む。
そんな貧乏暮らしでも、大学進学率は15%くらいだったから、エリート意識というか、一応、知識人の端くれという自覚はある。ちなみに、今の大学進学率は54%くらい。
全共闘運動の背景には、そんな、当時の学生が置かれた時代状況もあった。

でも、時代は急速に変化した。
80年代に入ると、60年代までは確かにあった「貧困」を社会から感じなくなった。
カラーテレビとクーラーと車が当たり前になり、世は隔週休2日制へと急速に流れていく。
もう、共産主義とか革命とかいう言葉が完全に死語になる時代が出現したのだ。

彼女は1971年に奥平さんと偽装結婚して海外へ移住していましたが、そこでパレスチナ人と結婚しています。

そこで生まれた子供が、美人ジャーナリストの重信メイさんなんですね。