花形 敬(はながた けい)1930年 - 1963年9月27日

日本のヤクザ、喧嘩師、安藤組大幹部。


『グラップラー刃牙』の人気キャラ、喧嘩師・花山 薫安藤組組長・安藤昇にもっとも可愛がられた人物。前科7犯、22回の逮捕歴を持った。


花形をモデルとした人物が小説や映画、漫画に数多く登場するため、伝説的な存在となっている。

喧嘩は「素手喧嘩(ステゴロ)」と呼ばれ、喧嘩に武器は一切持たない主義であった。


あの戦後の混乱期を腕力ひとつで、強くより強くと生きた男、「渋谷で一番強い男」

1930年(昭和5)生まれ、戦後の混乱期を暴力でのし上がった花形敬。


花形家は二十代四百年の歴史を持つ東京世田谷の名家の出です。

 一族の血を遡れば武田信玄麾下の武将に行きつくといいます。

父はワシントン州立大学で学び母と結婚した後はシアトルで暮しています、いわゆるセレブの家の出自であるといえいます。

小学校の頃から他の追随を許さない腕っぷしで知られたが、いっぽうでケンカがらみで怒鳴り込んできた相手の親を感心させるほど弁が立ち、頭も切れた。

国士舘中学を暴力事件で退学させられたというのだからハンパではない。

(1983年)に渋谷を根城とした石井組の組長、当時現役のヤクザであり、関東の広域暴力団“住吉会”の幹部・石井福造が学生時代に花形とケンカで対峙したときの印象を語っている。

あいつ、縁なしの眼鏡をしていたでしょう。

それをかけていると品がいいんですけど、喧嘩するときにすぐはずすんです。すると、凄い顔になる。

顔見ただけでびっくりしちゃった、もの凄いんだものね。

花形の顔には学生時代で既に大きな“疵”がいくつも刻まれていた。

石井氏は国士舘の番長であったが、花形が編入してくると同時に番長の座を明け渡すことになる。

ともかく、ズバ抜けてケンカが強かった、相手がナイフや銃を出してきても、花形は大胆にも常に素手で闘った。

花形さんは常に真っ白なスーツを着て、テンガロンハットとサングラスというギャングそのものの着こなしだった。


ケンカをはじめる時にはまずサングラスを外してド迫力の顔をさらす

何でも顔面には20数ヶ所の刀傷があった。

そしてケンカが始まるが花形のケンカはいつも大抵10秒以内にケリがついたそうだ。

とにかくパワーがすさまじかった。

ほとんどパンチ1~2発で終わってしまうというのだ。

この花形のパンチをくらった者に言わせると「鉛のように重かった」「気が付いたら(自分が)地に伏せていた」とか。

ちなみにこれら証言者の中にはプロの柔道家、空手家、ボクサー、果ては現役の力士までいた。

また当時ヤクザが路上でケンカを始めると大概、まわりの連中はどっちが勝つかで賭けをして遊んでいたらしいが花形の場合は特別で花形が1発で終わらせるか2発で終わらせるか の賭けにしかならなかったという。

何より白いスーツですがケンカで汚した事がないという 人斬りジムと言われるロシア人と喧嘩になり、相手が日本刀を用いて来たために、斬られる前に殴り殺めてしまい、逮捕される。

33歳だった、花形はこの時点で前科7犯、逮捕されること実に24回に上った。

昭和25年、石井福造の仲介で安藤の舎弟となり、渋谷を中心に活動。

渋谷で泣く子も黙ったと伝説の男だった、身長も180センチ以上の大男で顔には無数の傷があり正に顔面凶器と形容された、力道山が渋谷に出来たキャバレー( 純情 )を安藤組に挨拶なしで出したことに劇高した花形は直ちに力道山が用心棒をしているキャバレー純情にいき一触即発のときに花形の余りの気迫に力道山はあっさりと矛先をかえて花形と手打ちにする。

花形のその凶暴さが加速する時は酒を飲みだすと酒乱になり身内にも度々暴力をふるった。

しかし普段は寡黙で大人しく、後輩の面倒見も良いがひとたびお酒が入り度がすぎると人格がかわり安藤組の幹部でも花形が酔っ払うと度々殴られたり、裸踊りをさせられたりら顔にタバコをつけられなりと手の追えない状態になった。

花形が撃たれた事件があり花形がに無言で刺客が引き金を引いたのだ。

初弾が体をかすめ、脇の壁にめり込んだというが、 「おい、なんの真似だ。

お前にゃ俺を撃てねえよ」 花形敬はゆっくりと左の拳を差し出すと、刺客は再び引き金を引き、今度はその拳を弾丸が貫くと血飛沫が舞い、花形敬がよろめいた。

とどめの二発目が花形敬の腹部に吸い込まれ、刺客は花形が崩れ落ちるのを確認して走り去る。

しかし、花形敬は不死身だった。

自力でタクシーに乗り病院で応急処置を受けると、医者の制止を振り切り、そのまま女と夜の街に戻ったのだ。

弾丸が運良く体を貫通していたため、軽傷で済んだとはいっても常軌を逸した行動、並外れた体力であることは間違いない。

昭和33年6月、列島を震撼させた日本郵船横井英樹襲撃事件が勃発。

組長の安藤以下、おもだった幹部たちが検挙され、花形敬も刑務所に送られた。


後方支援だったため、いち早く出所した花形敬は組長代行に就任。

安藤組の建て直しに着手する。

このときの花形敬はまるで人が変わったようだったという。

力で相手を屈服させてきた男が、話し合いを重視し、組織のため下げたことのない頭を下げた。

しかし、裏社会は冷酷だった。

拳を封印された花形敬をおそれる人間はいない。

安藤不在の安藤組は、渋谷の縄張りを狙う他組織から、集中砲火を浴びる。

町井一家との抗争が勃発すると、報復の刃は花形敬に向けられた。

1963年(昭和38)午後11時15分、自宅近くで2人組の男に刺されて死亡、滅多刺しにされて家まで歩いて帰って出血多量で亡くなったけど、娘さんに送るハズの人形抱えてた。


花形殺害の瞬間を「仙寅」の店員と高校生2名が目撃しており、3人は刺客2人が現場から約150メートル離れた多摩川土手沿いの行政道路上に待たせてあった黒塗りの乗用車に乗り込むところまで追跡した。

すると乗用車は拳銃を発射しながら二子橋方面に逃走し、この銃撃で「仙寅」の店員は銃弾を受け左肺貫通の重体となり近くの溝ノ口病院に搬送された。

花形が刺されたのは東洋郵船社長・横井英樹を襲撃し、殺人未遂で2年6ヵ月の刑期を終えたすぐ後だった。

刺された当時の新聞を開くと、ソフト帽を被り笑みを浮かべる花形が認められた。

以後は安藤組は弱体化して安藤が服役を終えたシャバにでて花形敬がしんで主だった幹部も捕まりスッカリ弱体化した組みの解散を決める。


花形は粗暴のイメージが有るが、その反面お母さんの誕生日には銀のスプーンをプレゼントする心優しい反面もありました。

1963年(昭和38)午後11時15分

花形 敬33年の生涯を閉じた。

花形をモデルにした作品

映画

「安藤組外伝 人斬り舎弟」

「疵」

「修羅場の人間学」

「実録・安藤組外伝 餓狼の掟」 

漫画

「実録・安藤組(ブヤ)」

「餓狼の系譜」

「修羅の男たち 実録・人斬り五郎異聞 4 渋谷編」

「実録 疵-ヤクザ伝 安藤組 花形敬 伝説のケンカ師編」

「実録 一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎 懲役仁義編」

漫画

「グラップラー刃牙」

「軍鶏」