永田 洋子(ながた ひろこ) 新左翼活動家。
1945年(昭和20年)2月8日-2011年(平成23年)2月5日) 慶應義塾大学薬学部
連合赤軍中央委員会副委員長
森恒夫に次ぐナンバー2
生まれた2ヵ月後に横浜市港北区綱島に疎開し、小学校4年までは父親が勤務する電機会社の寮に住んでいた。
調布学園中学校・高等学校(現・田園調布学園中等部・高等部)を経て1963年に共立薬科大学(現・慶應義塾大学薬学部)に入学、在学中に共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派の学生組織(社学同ML派)の活動に参加するようになり、1964年5月に社学同ML派に加盟する。
1967年の卒業後は、慶應義塾大学病院の研究生となり、同病院の薬局で無給の医局員を務めた後、東京都品川区の三水会病院や済生会病院に勤務。
この間、1967年5~6月頃、かつて社学同ML派に参加していた縁で、社学同ML派元幹部河北三男と川島豪による分派「警鐘」にオルグされ参加、女性解放問題やボーナス団交などの労働運動にかかわり、一定の成果を挙げるが、その後組織からの指示と本人の希望で、薬剤師の仕事を辞め、活動に専従する。
その後、三里塚闘争で活動し、「警鐘」と日本共産党を除名された神奈川県の親中国派が合同した日本共産党(左派)神奈川県委員会を経て、河北三男と川島を指導者とする日本共産党(革命左派)神奈川県委員会のメンバーとなる。
革命左派(京浜安保共闘)では、石井功子、川島陽子とともに「京浜安保のおんな3戦士」と呼ばれた。「警鐘」に端を発する河北三男、川島グループの活動家としては古参に属するが、有力メンバーとは見なされておらず、正式な党員として認められたのは1969年4月の革命左派結成時とかなり遅かった。
1969年末の川島豪議長らの逮捕以後は、獄外指導部のメンバーの一人となる。
1970年9月には指導部の投票により最高指導者となる。
当時、永田は最高指導者にふさわしい人物とは見なされていなかったが、機関紙が書ける、重役についていないので余裕がある、(他のメンバーが)自分はやりたくない、といった理由で最高指導者に選出された。
指導部は引き続き集団指導体制であった。
永田はその後、指導部の最高責任者として上赤塚交番襲撃事件や真岡銃砲店襲撃事件に関与。
印旛沼事件では元同志2人の殺害を指示したが、その際薬学の知識を生かして、睡眠薬を手配・調合した。
永田は印旛沼事件に際して、「中核派ですら内ゲバで人を殺しているんだから」と言い、これを合理化したことがあったという。
1971年より、共産主義者同盟赤軍派との連携を指導し、7月には両派の合同による「連合赤軍」(当初は「統一赤軍」)を名目上結成。
12月には革命左派獄外指導者として、川島豪(獄中)との絶縁を宣言、赤軍派と「新党」を結成する。「新党」では副委員長に就任し、委員長の森恒夫に次ぐナンバー2となる。
テロ活動のため、軍事訓練を行うために山に篭もった29人(10名女性)。
銃砲店を襲い武器を仕入れ、銀行を襲い金を奪いメンバーの多くが指名手配されていた。
自由に都心部を動き回ることもできず山に篭もり軍事訓練。
メンバーのストレスは極限を迎えていた。
「革命のために命を捧げる」それが永田洋子(事件当時26歳)の生きる道であった。
積極的に行動しない人間を「総括」と称し暴行を加えていたメンバーたち。
総括というのは「真の革命戦士になるために反省を促す」行為のことだ。
最初はただの自己批判だったのだが、次第にエスカレートしていきリンチに変わった。
鬱屈した思いを暴行で晴らし、総括という名にすることによって正当化してきた。
一人目の犠牲者尾崎充男(22歳)は何度も総括に遭ってきた。
交番襲撃に積極的ではない、武器の隠し場所を教えた、などの理由により何度も殴る蹴るの暴行を受けてきた。
ある日、尾崎はまた総括の目に遭った。
激しい暴行の末気絶した。
気絶から目覚めれば、真の革命戦士になるはずだったのだが、尾崎は革命戦士になる予兆すら見受けられない。永田は言った。
「ここでやめたら尾崎は目覚めないわ!革命戦士としての自覚をもつために尾崎は木に縛りつけておくべきよ!」外はマイナス15度の極寒である。
尾崎は真冬の山の中で木に縛られ、舌を噛み切った。その後凍死。
「奴は革命に負けたのよ!これぞ敗北死!」と言い切った。
この事件から殺した人間は全て「敗北死」と言う言葉で片付けられるようになった。
二人目の犠牲者尾崎が死んだ次の日、総括のターゲットになったのが進藤隆三郎(21歳)であった。
進藤の元彼女が逮捕され、あらぬ疑いを掛けられた。
「違う!違う!」進藤の叫びは誰にも届かなかった。全員からの激しいリンチによって進藤死亡。
三人目の犠牲者小嶋和子(22歳)と加藤能敬(22歳)は付き合っていた。
あるとき、小屋の裏でキスしているところを運悪く永田に見られてしまう。
「あんたたち、こそこそと!いやらしい!革命する気あるの!!」永田はメンバー同士の恋愛を激しく嫌悪していたのだ。
革命家が恋愛なんて100年早い!永田はメンバー全員に訴えた。「総括に異議なし!!」二人とも激しい暴行を受け、小嶋は木に吊るされる。小嶋凍死。四人目の犠牲者彼女を殺され、加藤はボコボコになっても生きていた。
加藤には二人の弟がいた。
永田が命令する。「これは兄さんのためなのよ!兄さんを革命戦士にするための総括なのよ!」「兄さんすまない」二人の弟は兄の腹に強烈な蹴りを食らわす。
「次!もっとよ!」「兄さん!申し訳ない!」泣きながら兄を殴る。
加藤、動かなくなる。激しい暴行の末死亡。
五人目の犠牲者長い髪を鏡台の前で梳かしていた遠山美枝子(25歳)は永田に因縁をつけられる。
「あんた、鏡ばっかりみて革命する気あるの?
本当にやる気があるんなら自分で自分を統括しなさい!」遠山は小屋の中央に立たされ、自分の顔を30分以上も殴り続けた。
顔は晴れ上がり、その後髪を切られ逆エビに緊縛される。
そして、全員からリンチを受ける。
「あんたメンバーに色目使ってたんでしょ?
この男好きが!」「それでも革命家か!」顔の原形をとどめないほど殴られる。
「お母さん、美枝子は革命戦士になるから。
絶対幸せにするから!」遠山は母子家庭であった。遠山の願い虚しく死亡。
六人目の犠牲者行方正時(25歳)が不適切な発言をしたと会議で議論になった。
行方は縛られ、総括される。
行方、5日間の暴行によって死亡。
どのような不適切発言をしたのかは不明。
七人目の犠牲者「総括っておかしくないか。
一体なんのために行っているんだ」寺岡恒一(24歳)は親友にそう告げた。
「おっお前!何言っているんだ!」「親友のお前だからこそ言っているんだ。
このままじゃ俺たち全員永田に殺されるぞ!」後日、寺岡は永田に呼び出しされる。
「あんた、陰口を言っているんだって?」親友が長田に密告したことを悟った寺岡は覚悟する。
「俺はなぁ、最初っからお前のことが嫌いだったんだよ!この風船ババァ!」「あっあんたなんて!総括すらかけない!!死刑よ!死刑!みんなこの男を殺せ!」一人が寺岡の太ももにナイフを刺した。
動けなくなった寺岡を縛り、アイスピックで心臓、首、急所を狙って順に刺していった。
しかし、寺岡はなかなか死なない。
4人がかりでタオルで首を絞め絞殺した。
八人目の犠牲者前日に行われた死刑に山崎順(21歳)は加わらなかった。
「もう嫌だ…もう逃げたい…」山崎はこの地獄から抜け出たかった。
リーダーに呼び出しを食らった山崎は死刑に加わらなかったことを激しく追求された。
「僕を…死刑にしてください。
死刑になって当然の人間です…」涙を流しながら告げた。山崎、死刑に処される。
寺岡と同じ、アイスピックで全身を刺され、最後に絞殺された。
九人目の犠牲者山岳ベースに理想郷を夢見て家族と共に参加していた山本順一(28歳)山本は因縁をつけられる。
「お前、嫁に対する態度が偉そうだな。
お前は革命戦士なのか」山本への総括が始まった。無抵抗の山本は妻の目の前で暴行された。
逆エビに緊縛され床下の柱に繋がれた。
妻は山本の胸に顔を埋めて泣いた。
山本、舌を噛み切って自殺を図ろうとしたが失敗し放置され死亡。
十人目の犠牲者山本と同時期に総括され、死亡した女性がいる。
大槻節子(23歳)はメンバーとの議論の際「敗北」という言葉を多用してしまった。
因縁をつけられ総括される。
元々、永田は大槻が気に入らなかったのだ。
「あんたは可愛すぎる。あんたは男兄弟で育ったから男にちやほやされすぎているのよ。
男に媚びる方法を無意識に覚えちゃってるの。
このことを総括しないと駄目よ」「あんたは頭が良すぎるのよ。
本ばっかり読んで知識ばかり増やしても駄目。
あたしみたいな単純バカになれば総括は簡単だけど。
早く総括しちゃってよ」この総括というのは自己批判のことである。
大槻は可愛いやら頭がいいと褒められ、どこを直していいかさっぱりわからず、永田によってリンチされる。
永田に髪を切られ全員から殴打の末死亡。
十一人目の犠牲者金子みちよ(24歳)は永田から因縁をつけられる。
「あんた、メンバーの男ばっかり見てるね。この男好きが!女を使って取り入ろうって魂胆だろう?」「同士とヤッたことあるんだろう?」「革命戦士としての自覚が足りない!」金子みちよは妊婦であった。
金子は大槻同様、頭が良く美人であった。
金子は度々、永田に意見を申し出ることが多かった。
そのことが永田の逆鱗に触れたのであろう。
大槻と共に縛られ暴行を受ける。
床下の柱に縛られお腹の子もろとも殴られ死亡。
最後の犠牲者「この組織を脱退したい」山田孝(27歳)がそう告げた。
山田は雪の中正座をさせられ反省を促された。
夜に食事抜きで薪拾いを命じられ戻ったときに「作業が遅い!」と叱られ全員から袋叩きに遭う。
それから山田は連日暴行され、10日間リンチされ続けるという生き地獄を味わった。
ついに衰弱し死亡。
事件の終焉 29名のうち一人脱走、12人死亡という決壊寸前まで追い詰められる連合赤軍。
警察に追われ永田やら主要メンバーが逮捕され残った5名が「あさま山荘事件」を起こす。
40年近く前、日本に革命を目指す若者たちがいた。
革命は内部の争いによって瓦解し終わりを告げる。
永田は裁判によって死刑判決を受けたが2011年脳腫瘍によって獄死した。
永田洋子は、出廷しないために、全裸になった。
糞を体中になすりつければ、法廷に出ないで済む。
刑務所の鉄格子に全裸になってしがみついて、脱糞した。
出廷すれば、同士から罪業を告発される。
だから、永田洋子は、出廷を嫌った。
同士十四人を殺したのは、永田の罪。
革命とは関係もない。
山岳ベース事件では同志12名がリンチ殺害されたが、この指示は、もっぱら、永田によるものとする見方もあり、東京地方裁判所の判決もそのようなニュアンスの強いものであったが、これらについては「女性への偏見に基づいている」との批判が、関係者及び外部からなされている。
2001年公開の映画「光の雨」では、永田をモデルに映画化。