中庭に出ると、冷たい空気が肌に刺さった。まだ3月半ば、日が落ちるとぐっと冷え込む。

(わ、思ったより寒い…)

也映子は思わず自分の両肩を抱くようにさすり、ストールをラウンジに置いてきたことを後悔した。

「夜になると冷えますね。もしでしたら、戻りましょうか?」

すかさず甲村が声を掛けてくる。

「大丈夫です。…それに、落ち着いてお話したいので、ここの方が」

ちらり、と元いた席に視線をやれば、満子は爛々と期待に目を輝かせてこちらを見ている。

也映子の口からため息が出た。甲村も満子に気づいて苦笑する。

「そうですね。では、もう少しあっちの方に移りましょうか」

「はい」

純和風の中庭には、至るところに緑や石が配置され、仄暗い間接照明がそれらを浮かび上がらせている。石畳が続く足元は見にくく、ヒール靴では歩きにくかった。道すがら、甲村は細やかに気を配り、段差や滑りやすい場所では也映子に手を添えようとさえしてくれた。その手を丁重にお断りすると、にこり、と微笑みが返ってきた。

(この人、これが通常運転なんだろうな)

初対面で少しやりとりしただけの也映子でも、この人はモテるだろうと察しがついた。整った顔立ちに、柔らかな物腰、これでもかと行き届いた気配り。とても見合いの必要がある人とは思えない。

「少し座りましょうか」

「はい」

甲村に促され、近くのベンチに腰を下ろした。

夜風で木々がそよそよと揺れる。静けさにその音さえ際立ってしまう。

也映子はとにかく口を開いた。

「今日は、本当にご多忙の中お時間を取らせてしまってすみません。…えっと、ディーラーさんにお勤めじゃあ、今まさにお忙しい時期ですよね」

「まぁ、それはそうですね。小暮さんの職場もですか?」

「今の職場はそれほどではないんですが、前職がシステムキッチンを取り扱っていて、やはり春の新生活を控えたこの時期は一番の繁忙期だったので」

「あぁ、そういえば小暮さんは転職されてるんですよね。渡辺さんから伺いました」

「あ〜…はい、そうなんです」

言葉を返す表情が、ぎこちなくなってしまった。

別に理由を訊かれたわけではないのだから、婚約破棄についてまで言う必要はないのだが、そのことを避けると転職した説明もつかない。

その間を汲んだのだろう、甲村は違う角度から問いかけてきた。

「今は物件のリノベーションを扱ってらっしゃるとか。『モノ』ではなく『サービス』を売る、というのは、営業として大分違うものですか?」

「あ〜…どうでしょう。あまり特別意識してなかったですけど、そうですね、より顧客のニーズをきちんと把握するように、よくお話を聴くようになったかもしれません。あとは、以前は自社の製品しか取り扱えなかったですけど、今はメーカーに囚われず色んなご提案を柔軟にできる、というところが面白いです」

「なるほど。そういう自由度があるんですね」

「はい。自分の裁量に任せてもらえる度合いが大きくて。図面を引いたりっていうのはもちろん設計の方ですけど、リノベーションの方向性を決めるのは営業なので」

「だからこそ、顧客のニーズをきちんと把握する、っていうのが大事ですよね。言葉にするとそれだけなんですけど、営業はそれに尽きるっていうか。そこは車でも同じです。」

「そうなんですね。車の場合、欲しい車がまずあって、それを見て納得して買うために営業所に行く、ってイメージが、どっかでありました。…すみません」

はは、と甲村は笑った。

「謝らないで下さい。実際ディーラーの営業でさえ、そう思ってる人はいますから。でもそれじゃ、売上は伸びないんですけどね」

「売上が伸びない?」

「伸びないです。お客様がどうしてその車を選ばれたのか、そこを伺えて初めて、そのお客様が本当に望んでいるものを知ることができるからです。そこを無視しちゃうとお客様の満足度が下がってしまう。話をちゃんと聞いてもらえて、納得して買えた、っていう満足感が、また次もその人から買おう、知り合いにも勧めよう、って気持ちに繋がって、結果的にその後の売上が伸びるんですよ」

「…なるほど」

甲村は営業成績で常にトップを争っている、という満子の話はきっと事実に違いないと、短い会話の中でさえ也映子にも分かる。

「…なんて、偉そうにすみません。リノベーションの提案なら、日頃からそんな風にやってらっしゃいますよね」

「いえ。恥ずかしながら、そこまでちゃんと考えてはなかったです。ただ…」

「ただ?」

「ただ、ご提案する上で、お客様のより良い人生に寄与できるように、ということだけは心がけてお話するようにしています」

少し気恥ずかしそうに目線を落として言う也映子に、ふと、いつかの――入社当時の指導員だった頃の麻生の面影が重なった。そして、あの頃はただただ憧れの人に思えていた麻生から掛けられた言葉が、甲村の脳裏に鮮明に蘇った。

「そういえば…それ、私の指導員も言っていました。車を売ろうとするんじゃなくて、お客様の人生をより良くするために必要なものを提案するんだ、って」

「同じですね」

「今、急に思い出しました。最初の頃なかなか車が売れなくて頭抱えてたとき、そう言われて…そうだった…そこから考えるようになったんだなぁ、俺」

一人称が変わったように、遠くを見つめる甲村の表情も変わっていた。

也映子はそんな甲村を見ながら、一緒に中庭の四角に切り取られた夜空の星を見上げて、はっと我に返った。

(いやいやいやいやいや!私、何フツーに異業種懇談会しちゃってんの!)

流れるような甲村のトークにすっかり乗ってしまっていた。

(早く、一刻も早くお断りを入れなくては。いやしかし向こうの方こそお断りなのでは?)

むしろこちらから振るなんて失礼極まりないのでは、と逡巡していると、甲村の方が口を開いた。

「小暮さん、このお見合い、乗り気ではなかったんじゃないですか?」

「はい!?」

思わず変な声が出た。

「…あれ?違いましたか?」

「いえ、違わないです!…あ、というか、すみません…」

「いいんですよ。ぶっちゃけて言うと、僕自身も、渡辺さんに押し切られて仕方なく来た、ってところだったんで」

「…ですよね。ほんっと、すみません」

「すごい急な話でしたし、渡辺さんの圧もすごくて、よっぽどの人が来るんだろうと身構えてました」

「ですよね」

はは、と二人して笑った。

「でも、小暮さんとお話できてよかったです。お陰様で初心を思い出せました」

甲村がにこりと笑いかける。この笑顔はきっと、見る人が見たら好意と誤解しかねない類のものだ。

「それならよかったです」

目を合わせ続けていられず、也映子の方から目を逸らした。

「にしても、小暮さんも大変ですね」

「はい?」

「渡辺さん。あの様子だと、今回流れてもまたすぐ別の見合い話を持ってきそうです」

はぁ、と也映子は深い溜め息をついた。

「そうなんです…ほんと困ってて…こちらの話をまともに聞いてもらえなくて」

「渡辺さんのペースに巻き込まれないでいるのは至難の技ですよね。見合い自体が嫌なんですか?僕では力不足だったようで、申し訳ないですが」

「とんでもない!甲村さんは素晴らしすぎるほど素晴らしい方だと思います!」

「でも小暮さん、僕に1ミリも心動いてらっしゃらなかったでしょう?」

微笑みながら小首を傾げて尋ねてくる甲村に、この人もきっと相当な魔性なんだろうと也映子は思う。

「それはあのっ…甲村さんがどうこうではなく、私、実は今お付き合いしている人が既にいまして」

「えっ、そうなんですか?」

「そうなんです…」

「じゃあなんで、渡辺さんは見合いなんて言い出したんだろう?そういう相手がいること、まだお話されてないとか?」

「話してるんですけど…なんていうか、信用できない相手だと思われていて」

「え?なんか、訳アリの方なんですか?」

「いえ!そうじゃなくてですね…」

こういうとき、上手くはぐらかす才能がないと痛感する。

「…8歳、年下なんです」

「え?」

「8歳下の、まだ学生なんです、彼」

「…」

甲村がポカンと驚いているのを見て、也映子は改めて年齢差に立ちはだかる壁を見た気がした。


 

(それはヤバいだろ)

8歳下、と聞いて咄嗟に思い浮かんだ言葉を、甲村はすんでの所で飲み込んだ。

「そう、なんですね…」

一拍置いて、とりあえずそれだけ返した。

大学生なんて、本気で将来考えられる年じゃない。

(…こりゃ渡辺さんも心配になるわ…)

そこまで思ってから、はたと気付いた。

自分と麻生との年齢差。確か、ちょうど8歳だ。

年が離れているだけでありえない、と思った自分が、どこか麻生にとっての自分を否定したような気分になり、甲村は居た堪れなくなった。

(いや、学生と社会人とじゃ全然訳が違うはずだし)

誰にともなく言い訳が浮かんでしまう。

「でも、すごく誠実な、しっかりした人なんです」

也映子は、真剣な表情で必死に擁護している。その様子から察するに、彼女の方はかなり惚れ込んでいるんだろう。

「…渡辺さんは、なんて?」

「良いのは今だけで、そんな若い人が、10年後とか、先の将来も一緒にいるとは思えないって」

「それは…年齢で一概に言えませんよね」

「これから就職したりして、新たな出会いがあれば、そっちの方に目移りするはずだ、って断言されて」

(なんかそれっぽいこと、俺も麻生さんに言われたな)

以前それとなく好意を伝えたとき、そんなのは錯覚で、新しい出会いがあればきっと目が覚める、という趣旨のことを言われたことがあった。

「…そんな言い方をされるのは、彼も嫌でしょうね。いかにも信頼されていない感じがして」

「そうなんです。それなのに私、お見合い断れなかったこと伝えるとき、叔母さんに言われたことをそのまま彼に伝えてしまって」

「えっ…」

彼女は両手で顔を覆った。

「それで、私も彼のことを信じてないと思われてしまって、喧嘩になって…」

「それは…」

甲村は二の句が継げなかった。その彼の気持ちは、痛いほど想像できる。

「よくなかったと思ってます。実はそれ以来ちゃんと話すことも出来ていなくて」

「それは…あんまり良くないですね」 

「ですよね」

「小暮さんは、どう思っているんですか」

「はい?」

「やっぱりそれだけ年下だし、いつかは心変わりするかもって、どこかで思いますか」

彼女は少し驚いた顔をした。

甲村自身、どうしてそれを彼女に問うているのかよく分からなかった。彼女は麻生ではないのに。

「最初は…そう思って、付き合ってはみたものの終わるのが怖くて、離れようとしたこともありました。ゆるく繋がってる方がいいって」

「…」

「でも、彼が真っ直ぐに気持ちを伝えてくれて、信じてみよう、今を大事にしようって、思えるようになりました」

その時のことを思い出しているんだろう。少し遠くを見ながら話す彼女の瞳は、幸福そうに輝いていた。

「今でも全く不安がないわけじゃないですけど、でも会うたびに、『大丈夫』って、思えます。今を重ねていった先にある未来なら、信じられるし、信じたいって」

「…羨ましいな」

思わず本音が甲村の口をついて出ていた。

「えっ?羨ましい、ですか?」

「その彼は、どんな魔法の言葉で小暮さんの信頼を得たんですか」

「え…」

戸惑う彼女を前にしても、その魔法を知りたいと思った。麻生の信頼を得られる何かを、甲村もずっと探している。

「僕も、信頼されたい人がいるんですよ」

「それって…女性の方で、ってことですか」

「はい。俺より8歳年上の、同じ職場の先輩です。相手の浮気で一度離婚してて、今は小さいお子さんたちを一人で育ててるシングルマザーです」

也映子は目をパチクリさせながら、消化するように何度か頷いた。

「すごく…なんていうか、手強そうなお相手ですね…?」

「はは、やっぱりそう思いますか」

「そうですね…年が離れている上に、お子さんもいて、更には結婚した上で裏切られた経験をお持ちとなると…ちょっとやそっとでは、信頼を得られない感じがします…」

「そうなんですよ。正直、まともに取り合ってさえもらえないというか」

「プライベートでのお付き合いはあるんですか?」

「休みの日に、荷物持ち兼お子さんの遊び相手として、一緒に買物したりご飯食べたりはしてます。普段はタイミングが合えば昼飯を一緒にしたり。その程度ですね。それ以上は踏み込ませてもらえなくて」

麻生の前にいつも張られている、あの見えない遮断テープが思い浮かんだ。そこより先に手を伸ばそうとすると、麻生は急によそよそしくなり、顔を逸らす。

「え?それって、お子さんとも一緒に会ってる、ってことですか?」

「そうです。自分も、将来的なこと考えると少しでもお子さんたちと仲良くなりたいし」

「…真剣なんですね」

「そうですね。…なんていうか、必死です」

情けなくなって自嘲の笑みがこぼれた。そんな甲村を見る彼女の目は、温かい。

この人は、きっとむやみに人を笑わない人だ。

会ったばかりの甲村にも、そんな彼女の人柄は伝わった。

「というか、そんな大事な方がいたのに、こんな場所まで越させてしまって、改めてすみません」

「それはもういいですよ。それより、小暮さんの彼が使った魔法を知りたいです。教えてはもらえないですか」

自分でも立ち入ったことを訊いているものだと、苦笑してしまう。

彼女は目線を少し泳がせてから顔を上げ、宝箱を開けるように言葉を紡いだ。

「『あなたのためなら何とかするから、全部』って。そう言って、離れようとした私を抱きしめてくれました。不安ごと、丸ごと全部」

頬を染めて幸せそうな顔をしている彼女は可愛らしかった。きっとこれが、彼女がその彼に見せている普段の姿なんだろう。

「…そうだったんですね。教えて下さって、ありがとうございます」

彼女は恥ずかしそうにペコリと頭を下げた。

「参考になりましたか」

「藁にも縋りたくて訊いちゃいましたけど、そのまま使ったらめちゃくちゃ格好悪いですね、俺」

「まぁ、確かに。そうかも」

二人でふっと笑う。

「でも、そうだな…向こうの不安とか、先に進むのを躊躇う気持ちを、ちゃんと受け止めて聞こうとしてなかった、ってことには、うん、気付けた気がします」

「さすが、営業の鑑ですね。顧客の真のニーズが見えてます」

冗談めかして悪戯っぽく笑う彼女に、甲村は初めて本当の笑顔を向けた。

「そう言ってもらえると、嬉しいですね」

目が合った彼女は、少しの間を置いて、意を決したように口を開いた。

「実は私、前の仕事を辞めた理由って、同じ職場で付き合ってた人に婚約破棄されたからなんです。招待状も発送し終わった挙式直前になって、他に好きな人がいる、って告白されて」

「えっ…」

この人も色んな背景を背負っているんだと、改めて思う。

気にも留めないどこにでも居そうな地味な女性、と第一印象で括ったことを、甲村は恥じた。

「それは、かなりきついですね」

「もう、ほんっっっと、キツかったです。仕事辞めて、しばらく無職のままバイオリン教室通っちゃうくらいに」

「なんすか、それ」

「ほんとの話ですよ。通ったんです、バイオリンを弾けるようになりたくなって」

そう言って、彼女はちょっと得意気にバイオリンを弾く仕草を見せた。

「なんか、脈絡なく思えますけど」

「傍から見たらそうですよね」

彼女が笑う。人懐っこい笑顔だ。

「で、弾けるようになったんですか」

「う〜〜〜ん、人様に弾ける、と言っていい程には上手くないですけどね。でも、そこで出会った人たちに救われて、…ほんとに救われて、そのお陰で今があります」

「いい出会いだったんですね」

「はい。やたらズバズバ言ってくる19歳の大学生と、人生の素敵な先輩である主婦の二人に」

そこまで聞いて、甲村も察しがついた。

「…その大学生が、もしかして」

「はい。今お付き合いしてる人です」

「なるほど」

「…私、婚約破棄された後、信じるのが怖くなっちゃったんですよね…だって、結婚までしようとしてた、それまでの人生で一番信頼できると思っていた人に、裏切られたから」

自然と麻生の姿が甲村の頭に過る。

麻生にとっても、元夫は、そういう存在だったはずだ。

「誰かを信じるのも怖いし、信じられると思った自分の判断も、もう信じられなくて」

「そんな小暮さんを信じさせた彼は、すごいですね」

「直球なんですよね」

「え?」

「彼はいつも、直球で気持ちをぶつけてくるんです。ど直球だと、案外、受け止めるしかないものなんだなって、思います」

彼女は柔らかく微笑んだ。

「甲村さんは、その方に、はっきり気持ち伝えてるんですか」

「それは…はっきりとは、まだ」

言葉に詰まった。

仕事上の付き合いもあり、麻生が受け入れてくれる確信が持てない状況で、直接的な言葉を伝えることからは逃げていた。今にして思えば、保険をかけていたんだろう。

そもそも、好意を寄せられる側になる経験はあっても、その逆の立場になることはほぼ経験がなく、自分から動くことに臆病になっていたのかもしれない。

「まずはそこからじゃないですか。その上で、お相手の気持ち、聞かせてもらえるといいですね」

「…」

「お子さんにも会わせてくれてるくらいだから、それも何度も、ですよね?きっと人として信頼はしてくれてると思いますよ。でも、その先に進むのが、彼女さんも怖いんじゃないかな…」

そう言われると、その先に進もうとするとき、麻生は嫌がっているというより、どこか恐れているようにも思えた。

「そうですね…もっと、彼女の話を、しっかり聴こうと思います」

「はい」

夜の風が、中庭の木々を優しく揺らす。早咲きの小さな桜が灯された明かりに浮かび、夜空に彩りを与えていた。心なしか、星の光も、周りを行き交う人たちも、甲村の瞳に先程より柔らかく映った。

「小暮さん」

「はい」

「実は俺、彼女とのことを人に話したのは、今回が初めてなんです」

「そうなんですか」

「不思議ですね。小暮さんには何か…そういうのをつい話してしまう何かがあるような」

「えぇ〜?そうですか?」

「はい。きっと、営業としても優秀なんでしょうね。小暮さんになら、思わず本音を話してしまいそうです」

「そんなことないですよ。ただ、よくは知らない他人の方が話せることって、ありますよね」

片耳に髪を掛けながら微笑む彼女を見ながら、本当にそうかもしれない、と甲村は思った。

「あ、でもこの話は、渡辺さんにはオフレコでお願いできますか。その…彼女本人の耳に入りかねないので」

「叔母も知ってる方なんですね。それは大変!絶対言わないようにします。余計ややこしくしそうですもん」

「はは、それは本当に勘弁してほしい」

ふと腕時計に目を遣ると、大分時間が経っていた。

思いの外彼女との会話を自分が楽しんでいたことに、甲村は驚いた。

「そろそろ、中に戻りましょうか」

「そうですね」

席を立ち、元いたラウンジへと足を向ける。

「渡辺さん、手ぐすね引いて待ってそうですね」

「ですよね〜…」

「どんな風に伝えれば角が立たないか、難しいですね」

角を曲がるとラウンジが見えてくる。

様子を伺うべく満子の方へ目を遣ると、甲村の視界にカジュアルな一人の男性の姿が入ってきた。

高価格帯のこのホテルのフロアにいるには浮いている身なりだ。暗い色調のフォーマルな出で立ちの人間が多い中、ベージュのダウンとジーンズに身を包んだ彼は目を引いた。

キョロキョロと辺りを見回しながら、誰かを探しているような様子が窺えた。

(若いな。まだ学生か)

青年に目を奪われていると、也映子が急に悲鳴とともに倒れ込んできた。

「わっ!」

甲村は咄嗟に彼女を支えた。

パンプスのヒールが、足元の石と石の隙間に嵌ってしまったようだった。

「大丈夫ですか。今抜きますから、肩に掴まっていて下さい」

「わぁ…ほんとすみません…」

しゃがんで也映子の靴に触れようとしたとき、ラウンジ側に背を向けて立つ彼女越しに、強い視線を感じた。

「…」

甲村が思わず手を止めてそちらに目を向けると、先程の青年が目を見開いてこちらを凝視している。

彼の表情が、全てを物語っていた。

(もしかしてあれ、魔法使いの年下くんか)

甲村はヒールを抜くとゆっくり立ち上がり、わざと也映子の髪に触れた。

「えっ…!?」

彼女は訝しがって避けようとする。

「すみません。髪に、桜の花びらがついていたもので」

「…あぁ。そうだったんですね。ありがとうございます」

もう一度、ちらりと青年の方を見た。

その瞳は煮えたぎるように燃えていて、甲村は自分の勘が当たっているのを確信した。

 

(続く)